「両手では全然、弾けませんでした。がっかりしたけれど、次の日はもう忘れました。翌年の音楽祭でも弾いてみました。左手の曲も入れて1時間のプログラム。赤ちゃんがちょっと歩けるようになった程度の演奏でした」
この1年半から2年の間、弾けるようになるために、たゆまぬ努力をしたわけではない。「いつかピアノに戻る-。振り返ってみればそういう気持ちが根底にはあったのでしょうが、その時は考えられませんでした。左手の曲は昔から知っていましたが、弾こうと思わず自然にピアノを弾かなくなっていました」
「復帰リサイタルをやろう」
ある日、バイオリニストの息子が左手のピアノの楽譜を置いていった。倒れてから1年半ぐらいの時だ。興味のある作曲家だったので、「この作曲家の左手の曲があるんだ」とその楽譜を開いてみた途端、音が立ち上がってきた。「一瞬にして、光あふれる世界に戻ってきたの。左手で弾くという発想が浮かばなかったのは、機が熟していなかったから。翌年、日本の4大都市で復帰のリサイタルを開こうとひらめいたのです」
その前には、左手の音楽を演奏して「こういう道もある」と示してくれたピアニストもいた。昔から左手の楽譜も集めていた。なかなか自分とは結びつかなかったが、息子が持ってきた楽譜には背中を押された。舘野さんは、翌々日にマネジメント事務所に「演奏会を開きたい」と連絡した。
昔からある左手の楽譜のほとんどは絶版。30曲ほど手に入ったものの、演奏したいのは2曲だけ。友人で作曲家の間宮芳生さんとノルドグレンに、書き下ろしの作品をファクスでお願いした。演奏会直前に曲ができてきたので、大変だった。1日に6時間も練習した。舘野さんにとって、そういった努力は当たり前のことだった。
「演奏会は大成功で、たくさんの方が感激したと言ってくれました。無事に弾き終わって高揚した気持ちはなく、やっといるべき場所に戻ってきたという静かな気持ちです。これは自分のやっていくこと、生きる道だと、プロのピアニストとして思いました」

その後、寄付金で「舘野泉 左手の文庫」を設立し、たくさんの音楽家に作曲を依頼した。すべて世界初演だからおもしろい。不自由になって、音楽の本質が見えた。
いま奏でるのは「両手ではできない曲」
「右手を奪われたんじゃなくて、左手の音楽を与えられたのです。それまでのキャリアは体に刻まれていて、ゼロになったわけではない。だから左手で音楽を奏でることができる。年をとったし生活も自由ではありませんが、毎日が新鮮。今も昔と変わらず、自分の人生を歩んでいます」
左手だけで弾くのは特別なことではない、と舘野さんは説明する。「左手の音楽としてできている曲ですから、自然に弾いているだけです。ショパンやベートーベンなどの名曲を左手用に編曲してはと言われても興味がありません。左手のためのオリジナルの曲を弾きたい。両手で弾けたものが半分になったわけではなくて、独自の音楽なのですよ」
そしてこう語った。「神様が、いいことをやっているご褒美に両手を返してくれると言っても、結構ですと言いますね。左手で弾くのがおもしろいので」