カーペンターズの仕掛け人だった「無敵のゼロ戦乗り」の壮絶人生

超エースパイロットが生んだ数々の名曲
神立 尚紀 プロフィール

「荒くれ隊長」、敵国のレコードを売る

鈴木さんは明治43(1910)年、東京に生まれた。幼い頃に見た飛行機の曲芸飛行の興奮が忘れられず、東京府立第一中学校(現・都立日比谷高校)を経て海軍兵学校に進む。当時、パイロットになるには陸海軍の軍人になるのがいちばんてっとり早かった、というのがその動機であった。

 

念願かなって戦闘機搭乗員となった鈴木さんは、空母「龍驤(りゅうじょう)」乗組だった昭和12(1937)年8月、上海で居留民保護のため駐留していた日本軍と中華民国軍が武力衝突(第二次上海事変――同年7月に勃発した北支事変と合わせ、「支那事変」と呼ばれる)したのを受けて上海沖に派遣され、九五式艦上戦闘機4機を率いて27機の中国空軍戦闘機と交戦、1機も失うことなく9機を撃墜、一躍その名が知られるようになった。

昭和12(1937)年撮影の空母「龍驤」戦闘機隊。中列左端が鈴木さん
昭和16(1941)年5月26日、中国大陸上空を飛ぶ零戦隊。胴体に赤帯2本の指揮官標識を記した機体が鈴木さんの乗機
 

その後、中国・湖北省の漢口(かんこう)基地に拠点を置く第十二航空隊分隊長として零戦隊を率い、中国空軍の甘粛(かんしゅく)省・天水(てんすい)基地を地上銃撃で壊滅させた鈴木さんは、さらに太平洋戦争では、蘭印(現・インドネシア)セレベス島(現・スラウェシ島)ケンダリー基地に拠点を置く第二〇二(ふたまるふた)海軍航空隊飛行隊長として、オーストラリア北部のダーウィンに展開するオーストラリア、イギリス空軍の戦闘機・スピットファイアを相手に撃墜34機、空戦による損失1機という一方的勝利をおさめた。

昭和18(1943)年11月22日、ケンダリー基地を訪れた慰問団と。左から2人めが女優・森光子。その右、ヘルメット姿が鈴木さん

――そんな鈴木さんが、戦後、全く畑違いのレコード会社に入り、敵だった国のミュージシャンの曲を大ヒットさせることになるのだから、人生はわからないものである。

鈴木さんは、台湾、台中基地に本拠を置く特攻部隊・第二〇五海軍航空隊飛行長として終戦を迎えた。駐留してきた中華民国空軍の司令官・張柏壽(ちょうはくじゅ)中将は、偶然にも、かつて鈴木さんが壊滅させた天水基地の、当時の基地指揮官だった。

鈴木さんは張中将に気に入られ、「留用」すなわち、中国空軍に雇い入れることを打診されるが、それを断って昭和21(1946)年1月に復員。海軍時代の上官の伝手で旧日本軍の軍用トラックの払い下げを受け、横須賀の西松組(現・西松建設)の下請け運転手となった。

だが、復興資材の輸送で、はじめのうちは順調に行くかに思えたトラックの仕事にも、思わぬ壁が立ちはだかる。昭和22(1947)年2月、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指令で石油製品に指定配給物資として配給切符制が実施され、肝心のガソリンが思うように手に入らなくなったのである。仕事は、需要はあるはずなのに激減した。

進退窮まった鈴木さんは昭和22年3月に上京し、藁(わら)をもつかむ思いで、キングレコードの総務部長を務めていた従兄の板垣勝三郎氏を勤務先に訪ねた。ところがこの日のうちに、鈴木さんに大きな転機が訪れる。

ここでたまたま会った同社の専務・小倉政博氏が、戦時中、海軍のセレベス民政府の司政官として、マカッサルにいたという。鈴木さんが、昭和18(1943)年、二〇二空の飛行隊長としてマカッサルにもいたことがあると話すと、小倉氏は、

「ああ、あなた、どこかで見たことのある顔だと思ったんだ。ヒゲ部隊の隊長か」

と、よく覚えていた。二〇二空の搭乗員たちは、当時、鈴木飛行隊長の命令で全員が髭を伸ばし、「ヒゲ部隊」と称していたのだ。

「あなたの部隊がマカッサルに来たら、料亭から何から、客はみんな逃げ出しちゃう。荒っぽいし飲んだら暴れるしで、みんな怖れてましたよ。上空哨戒は頼もしかったですがね」

昭和18年5月頃。ヒゲ部隊隊長時代の鈴木さん。ケンダリー基地指揮所にて

鈴木さんと小倉氏は、互いの戦地での話にすっかり意気投合した。そして、その日のうちにキングレコードの親会社である講談社の野間省一社主に引き合わされ、講談社が、占領軍の方針による財閥解体をチャンスととらえて設立準備中の貿易会社、キング商事に「国内貿易課長」の肩書きで入社することになった。ところが翌23(1948)年、キングレコードに販売課長の欠員が出たのでそちらに回ることになり、鈴木さんは、思いもよらずレコード会社に勤めることになる。

「昭和10(1935)年、飛行学生のときに、水戸の料亭で酔って暴れ、『こんな外国の音楽が聴けるか!』と、レコード50枚を叩き割って快哉を叫んだことを思い出しました。あの頃は、まさか自分が将来レコード会社に勤めることになろうとは、夢にも思わなかった。焼け跡で復興し始めたレコード店へ挨拶回りをしながら、『因果応報』という言葉が、頭をよぎりましたよ」

飛行学生ならぬ非行学生だった頃の鈴木さん(右から二人め)

キングレコードは空襲で工場が焼けたが、資金不足のためその再建もままならなかった。給料も日払いで遅配は当たり前だったという。

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