顎を強打した私が青ざめた理由
もう30年も前のことだ。私は医局の先輩たちに連れられてスキーに行った。午後3時頃、事件が起きた。
前を滑っていた女性が突然転んだ。私は急には止まれずに、そのまま突っ込んだ。スキーの板で彼女を傷つけたら危険だと思い、私はとっさに脚を思いきり開いた状態で衝突した。
「キーン!」
プロ野球好プレー・珍プレーの映像で、股間にボールが当たった時の効果音と激痛が私の脳天を貫いた。
事故の様子を目の当たりにした先輩の目撃証言によると、女性は転んだ直後、ストックを支えに起き上がろうとして肘を曲げていた。私はその肘鉄をもろに股間に受け、さらに女性の頭に私の顎が当たった模様だ。
「大丈夫ですかぁ?」
「……んぐ……」
女性の問いかけに、私は苦痛のあまり悶えて答えられず、土下座状態のまましばらく起き上がることができなかった。
「キン○○腫れちまうのかなぁ……」
幸い、それは杞憂に終わった。ほどなくして股間の痛みは和らぎ、徐々に自分のケガの具合がわかってきた。まず上顎の犬歯の先が少し欠けていた。さらに顎の皮膚と口内の粘膜を切ったらしく、出血していた。ペッと血液を吐き出そうとしたとき、「えっ?」と思った。
「く、口が開かない!」
痛くて口が開かなかった。私は青ざめた。股間の痛みや顎の切り傷よりも、口が開けられないことに、私はショックを受けた。
「顎の骨が折れたんじゃないか?」
瞬時にそう思った。
下顎の骨は大変特殊な形をしている。まず下の歯を収容する部分(体部といいます)はU字状に広がり、えらの部分(角部といいます)で垂直に曲がる。えらから頭側に伸び、最後は二股に分かれる。前方には咀嚼に関わる筋肉が停止し、後方は耳の前で顎関節になる。顎関節の首はまるでサラブレッドの足首のように細い。顎の前方を強打すると衝撃が頭側へ伝わり、間接的に届いた力によって細い顎関節を骨折することがあるのだ。
私は目の前が真っ暗になった。骨折していたら、当然手術が必要だ。私は下顎を骨折すると、その後どういう治療経過をたどるのかを知っている。
読者の皆様、骨折の治療をイメージしていただきたい。たとえば手足の骨折の手術ならば、一般的には骨折部を整復し、プレート(金属の板)とスクリュー(ねじ)で固定する。最後に、周囲の関節を含めてギプスでさらに外固定して終了になる。
ところが、下顎の骨折の場合はやや異なる。手術で骨折部を出し、金属で固定するところまでは一緒なのだが、顔にギプスを巻くわけにはいかない。下顎の骨折手術の後の外固定はどうするのか?
骨折部に力を及ぼす関節を動かないようにするのが外固定の鉄則である。よって顎関節が動かなければよいということになる。実際には、上顎と下顎をワイヤーでつないで口が開かないようにするのである(顎間固定といいます)。ちょうど、矯正歯科で治療を受けている人のように、歯の前が銀色の金属だらけになり、ワイヤーで口が開かなくなる状態をイメージしていただきたい。

術前に説明を受けているとはいえ、全身麻酔から目が覚めたとき、もし口が開かなかったら、患者さんは相当ビックリするのではないか? 意識が戻った後、あくびをするときも口が開かない。