78歳で倒れ、手術を受けた父。息子で40代の「ぼく」は、ぶっきらぼうで家族を顧みなかった父にずっと反発を覚えていたが、父に前妻がいたこと、そして自分の腹違いの兄が存在することを聞かされて以来、家族の過去を調べていた。
日々、母とともに父の介護・看病をする一方で、仕事や育児との並立にいつしかストレスが溜まりつつあった「ぼく」は、子どもに当たる自分に、かつて自分を殴った父の姿を見るようになっていたーー。
現役証券マンで作家の町田哲也氏が、実体験をもとに描くノンフィクション・ノベル『家族をさがす旅』。
大人になり、父と同じ立場になった
数日前には、母との気まずいやり取りがあった。些細なことだった。メディカルセンターから最寄り駅に向かう道で、車を運転する母が方向を間違えてしまったのだ。
「もう、何やってるんだよ」
「ごめんね」
「そこに入って、Uターンさせてもらいなよ」
「そんなことできないでしょ」
ぼくがガソリンスタンドを指さすと、母はなかに車を止めた。一度入ったからには、給油しないで出るわけにはいかない。律儀な考えではあるが、つき合うのがバカらしく思えてならなかった。
「もういいよ。何分待たせるんだよ」
ぼくはいい放つと、歩いていくといって車を降りた。
駅に向かう道を歩きながら、ぼくは自分の感情を落ち着かせた。いったい何に苛立っていたのだろうか。
別に急いでいたわけではない。駅まで歩けばよかったのだが、せっかくだから送っていくという母の誘いを断る気になれなかった。思えばいつもそうだった。母の親切を、どうしても素直に受けることができない。
家庭内で暴力をふるう父と、いつも忙しくて家にいない母。自分の足りない部分は、余裕のない昔の家庭環境に起因していると思っていた。
今になって優しくされると、なぜか冷たく接してしまう。悪意があるわけではないのだが、親切に不慣れでどう対応していいのかわからない気持ちが、反発という行動に出てしまうのだ。
ぼく自身が親の立場になり、子どもを扱うむずかしさを感じはじめていたこともあるかもしれない。5歳と3歳になる二人の子どもは、何度注意してもいうことを聞かない年頃になっていた。怒れば、嫌そうな目をしてぼくの話を聞く。
妻からは、怒り過ぎないようにと何度もいわれていた。たまにしかいない父親が母親と同じように怒っていると、父親のいうことを聞かなくなる。大事なときに出てきてくれればいいのだと。
妻の指摘が、ぼくにとっては驚きだった。子どもが危険なことをしたとき以外は、黙って見ていろという。約束を守らなかったときや嘘をついたときも、ニコニコしていろというのだろうか。
「パパ、すぐ怒るんだもん」という言葉に思い出したのは、父の顔だった。箸の上げ下げひとつで、痣ができるほど殴られた。ぼくのようないい方ではなかったはずだ。しかしあのときの父が、今のぼくと違うとどうしていえるのだろう。

映画をあきらめ、不満ばかりを抱えながらパン屋をはじめた父にとって、いうことを聞かない子どもが鬱陶しかったのは事実だろう。しかし子どものことが気になって仕方ないという感情も、同じだったはずだ。
表現を志しながら自分の生活に足を取られ、思うようにならない毎日に疲れて子どもを怒ってしまう。まさに父と同じ立場に、ぼくが立たされていた。
誰に頼まれているわけでもない。好きで小説を書いているはずだった。自分の原点となる気持ちを失いたくないという思いを支えに、毎日少しずつ書き続けてきた。そんな生活を維持するために必要なのは、自分の感情を殺すことだった。
何をいわれても気にしない人間になることは、簡単なことだった。会社での立場に不相応なほどに自分の生活を中心に据えるのは、表現を欲求する自分を止められなかったからだ。
悩ましいのは子育てだった。貴重な時間を制約され、自分の感情をコントロールできなくなるときがある。
ふと子どもに手をあげたくなるとき、思い浮かべるのが怒った父の表情だった。ああなってはいけない。そう思う気持ちで何度、自分を律したことかわからない。否定すべき存在として、父はぼくのなかに棲みついていた。
母に対して気まずい思いをしてしまうのも、感情を抑えられない自分の幼稚さに起因していた。ぼくの文句に、母は何もいわなかった。道を間違えた程度で、どうして怒る必要があるのだろう。電車を一本遅らせるかどうかの話だ。
車のドア越しに映る母の表情が、ぼくの感情を見透かしているように思えてならなかった。