戦後73年目を迎えた空襲被害者
第二次世界大戦の終結から73年目を迎える。1945年8月15日は、日本国民が戦争の終わりを知らされた「終戦の日」であり、「国家が起こした戦争から解放された日」である。
しかし、戦争は終わっても戦争被害は続いている。
米軍機による空襲で日本各地が焼け野原になり、40万人を超える死者が出た。生命は助かっても、負傷して障害を負い、家族を失い、自宅や財産を失うなどの被害を負った人々は数多い。
大阪府堺市の安野輝子(あんの・てるこ)さんは、6歳になったばかりの1945年7月16日に鹿児島県川内市(現在の薩摩川内市)で空襲に遭った。
昼過ぎに空襲警報のサイレンが鳴り、部屋の片隅に身を寄せた。強い衝撃のためか、空襲を受けた瞬間の記憶はなく、気が付くとあたりは血の海になっていた。爆弾の破片によって左足の膝下が切断されたのである。
運び込まれた病院では、隣のベッドにいた若い女性銀行員が夜中にうめき声をあげながら亡くなった。その恐ろしさが忘れられないという。
安野さんも出血多量で死線をさまよった。物資窮乏のもと十分な治療を受けられず、足の傷は化膿して悪臭を放ち、治るまでに9ヵ月かかった。
幼い安野さんは「足は生えてくる」と信じていた。しかし、戦争が終わっても足は生えてこない。
翌年4月、松葉杖をついて小学校へ通い始めたが、片足がないことでいじめられた。遠足や運動会には参加できず、友達と楽しく過ごすことはなかった。

今よりも障害者差別が激しかった時代。就職もできず、母から勧められた洋裁で生計を立て、義足と松葉杖で生きてきた。義足をつけた足が痛むので長くは歩けない。
今年79歳になった安野さんは、「戦争さえなければ障害を負うこともなく、もっと幸せに生きられた」と人生を振り返る。そして、次の疑問が頭から離れない。
「国が始めた戦争で片足を奪われ、不自由な人生を送らされたのに、なぜ政府からは一言の謝罪もなく、一円たりとも補償してくれないのか」
この問いにどう答えるべきだろうか。これは過去の戦争の問題ではない。いま生きる私たち自身に突きつけられた課題である。