20世紀の哲学は「哲学の墓場」である——新たな原理の構想に向けて
『欲望論』の著者、竹田青嗣氏に聞く②2017年刊行の『欲望論』において、4000ページにわたり現代社会における哲学と思想の再生を打ち立てた、竹田青嗣氏への特別インタビュー〈中編〉。
人間の「本質」は「欲望」です
――では本題に入って。まず、なぜタイトルは『欲望論』なのでしょうか?
と言うのも、「欲望」と言うと、なんか俗な、エロなものとか、パッと見たらそういうふうにとられるかなぁと思うのです。竹田さんのおっしゃる「欲望」とは、そもそもどう理解すればよいのでしょう?
思想の世界では「欲求」と「欲望」を区別します。動物の、飢えたから食べたいというような身体的な必要を「欲求」と呼び、意味の世界の中で人間化された諸「欲求」を「欲望」と呼ぶ。
そして、欲求は有限なので満足させることができるけれど、人間の欲望は無限なので限界がない、とする。
つまり、「存在すること」の本質は、生が「欲望」としてあることなのです。ですから「欲望」が最も重要なキーワードになる。
人間の「欲望」の概念を、このように定義した最初の人はプラトンです。プラトンはこの欲望を「恋[エロース]」と名付けました。
人間が何かに強く惹きつけられる力のことです。美しい肉体、あるいはお金、権力、幸福、などが、まず人間の欲望の一般的な対象とされました。
しかしプラトンでは、このような人間の欲望のさらにおおもとにある本質的な対象は、「美的な」ものだとされるんですね。
さまざまな美しいもの、あるいは美しい知識や思想など、そういった美的なものが欲望の対象となること、それこそが人間の欲望の本質だというのです。
その意味において、人間の本質論は人間の欲望の本質論である。ここに哲学の最も重要な主題がある。

――ということは、人間の場合には、「欲求」の上に二階建てで「欲望」がある、という理解でいいでしょうか?
二階建てというより、むしろ動物的な「欲求」が、人間が人間として生育していく過程で「欲望」に変成していく。
――二階建てと言うと、前回のお話しにもあったフロイトの無意識みたいに欲求を実体化してしまうからよくない?
そうですね。むしろ動物的な欲求が、いかに欲望へと変成してゆくかがポイントです。つまり「善」「美」に対する欲望とは、人間だけが持っているのではなく、あくまでも動物の欲求にその起源を持っている、そう考えるのです。
そこから、とりわけ母子(つまり養育者と子ども)という関係を通して欲望が現れてくる。それが私の発生論のポイントになります。
だれでもが納得できる地点から始める
――でも、それでは起源論になって、竹田さんが禁じ手にしている実体論になってしまうのではないでしょうか?
たとえば、言語がどうやってできたかを説明しようとすると、たしかに起源論になります。でも、起源論と発生論はちがうんです。
起源論が設定する根源なるものはあくまでも仮構にすぎず、それ自体には根拠がない。だから必ずその「根拠なるもの」を認めない人が出てくる。
いっぽう、私が言う発生論は、あくまでも個々人が自分自身の内省によって検証することのできる仮説です。
たとえば、誰でも、自分の「快‐不快」や「美-醜」といった判断が、自分の内面のどのようなはたらきに基づいてなされているのかを内省し、さらにはそれを、他人のものと比較することができます。
だから、このように内省的に洞察できる場面から出発すれば誰にでも、この仮説の適否を検証することができるでしょう?
また、その場合にも、そもそもなぜ、この「快‐不快」というものが人間にはあるのか、なぜ「欲望」というものがあるのか、は問わない。
フロイトのように失われたペニスが人間的「欲望」の根源だと言えば、たしかに「物語」になってしまう。
けれど、われわれの美的感覚が「きれい-きたない」という、みんなの共通理解の内で生成する、と言えば、誰でも自らの経験を翻って、すなわち内省することによって、それが疑いようのない事実であることを確認できるはずです。