2018.09.05
# 思想 # 哲学

いま、哲学は面白い——近代哲学者の志に学び、新たな地平を切り拓け

『欲望論』の著者、竹田青嗣氏に聞く③
なぜ、今、哲学が面白いのか? マルクス主義は失敗し、ポストモダン思想も挫折した。行き過ぎた資本主義に向き合うためには「哲学とは何か」をもういちど1から摑み直さねばならない。若い世代にこそ、ぜひこの領域に踏み出し、新しい道を開いてほしい——。2017年に刊行された大著『欲望論』の著者・竹田青嗣氏のインタビュー〈後編〉。

まったく新しい哲学の原理を出す

――さて、前回のお話の最後にあった、これからの課題、すなわち「社会構造に関する新しい原理」ですが、その原理はどこから出てくるのでしょうか?

一つは、相互承認にもとづく民主的なルールゲームとしての市民社会の原理を、いかに世界大にまで拡大できるか。

もう一つは経済学の立て直しですね。

――へー、経済学なんですか? しかし経済学は、効率性の計算とかそういったことをやっているだけで、「正しさ」とか「よさ」という、人間の根本的な問題は、まさにエポケーして思考停止の状態にあります。

その意味では経済学は、哲学に比べればローカルなディシプリンにすぎないのではないでしょうか?

いま一般に理解されている経済学であれば、たしかにそうでしょうね。しかし私が考えているのは、「経済学」の原理自体を再度、立てなおそうということなんです。

たしかに現今の新古典派が主流の経済学は、いかに経済政策に効率的に適用できるかという政策上のツールにすぎない。

アメリカのニューリベラリズムがその典型ですが、過剰なデフレとインフレにいかに対処するかとか、生産効率と失業対策とかだけが問題で、要するに自国の経済をどう立て直すかのツールとしての経済学が、いま経済学と言われているものの実態です。

要は経済学ではなく、国家の経営学でしかない。

でも、アダム・スミス、マルクス、ケインズといった経済学者たちが構想したのは、あくまでも普遍的な意味における経済学でした。世界大でどこにでも適用することのできる経済システムはいかに可能かを考えた。

でも、いま、そういう志をもって経済学を立て直そうとしている経済学者がいったいどこにいるのか、私には分からない。

「最大生産のための最適配分」なんてちゃちなことではなく、資本主義経済が仮に不可避であるとすれば、では、どのような世界経済システムであれば人間社会に最適か、が考えられないといけない。

現在の経済学を超えた経済学を

ミクロ経済、マクロ経済を超える普遍経済学が必要なんです。競争に勝つためのツールではなく、合理的、かつ最適な競争のシステムを考えることこそが、そもそも経済学の本義なのですから。

私はここ10年くらい自分の哲学をやっているうちに、現代社会では哲学も、この普遍経済学と1つにならないと効力をもたないと思うようになってきました。しかし、少し年を取りすぎたので、このプロジェクトはつぎの世代に託さざるをえない(笑)。

「普遍経済学を志す若者よ出でよ」、と言いたいです。

――それは経済の哲学のようなものになるのでしょうか?

そうです。人間の社会は、大きく言って「政治」と「経済」と「文化」という3つのシステム、あるいは3つの「ゲーム」から成り立っています。

近代哲学は、近代になって「自由な存在」としての人間という可能性が現われたとき、その原理を徹底的に考えぬきました。そしてこの原理の上に、人間の歴史上はじめて、市民社会と市民国家という「自由な社会」が登場した。

しかし、今とくに重要なのは、世界規模の経済ゲームの原理です。当初は自然発生的なゲームにすぎなかった資本主義が制約なく膨張した結果、今ではあらゆる局面で解けない矛盾を作り出してしまっている。

もう政治ゲームの哲学原理だけでは先に進めない。でも今のところ、哲学としての経済学を誰も考えていない

―ということは、マルクスのやり直しみたいなことになる?

その通りです。マルクスは経済学者でもなんでもなかった。ただのジャーナリスト。しかし経済の問題こそが人間社会のキモだと考えて、何十年も国会図書館に通って新しい原理を探求した。

その意義と可能性が十分に理解されれば、10年ぐらいがんばれば必ずなんとかなる、そう思っているんですが。