沖縄について語るということ
2011年、私は21年間住んだ東京を離れ、故郷である沖縄に帰った。
それから5年間、再び東京に戻るまで、生まれ育った那覇市に住んだのだが、私は、次第に基地問題について発言する気持ちが無くなっていった。
いや、自分の正直な考えや複雑な気持ちを語ることが難しいと感じるようになっていったという方が正しいかもしれない。
沖縄で過ごした中高時代もそうだったが、山梨で過ごした大学時代も、東京に暮らしていたときも、私は、基地問題について発言することは厭わなかった。
テレビで沖縄の基地問題について放送されれば、いつも熱心に観入っていた。普天間基地の県内「移設」に知事として強く反対していた大田昌秀氏が、1998年の知事選に破れたときには、大きく落胆した。また、2004年、沖縄国際大学への米軍ヘリ墜落事故には、「まさに植民地」と怒った。
しかし、沖縄に住むうちに、その頃の思いに比べれば、まるで「反動」のような思いを抱えるようになっていった。

私は、基地問題に限らず、社会問題は「社会的弱者」という視点から関心を持ち、大学4年になるとHIV/AIDSの活動に参加し始め、その後、LGBTに関係する市民活動にもずっと関わってきた。そして、沖縄に帰ってもすぐにLGBTに関する活動を始めた。
そのため、私に近い関係の人の多くは、人権を大事に考える人たちで、その問題意識を考えると当然なのだが、その人たちの中では、沖縄の基地問題の見方、語り方は基本的に一致していた。
それは、ここ20年近い間、基地問題の中で最も課題となっている辺野古に予定されている基地建設に関していえば絶対反対であり、それは県民の総意である、というものである。
私自身も、辺野古への基地建設は反対である。そういう意味では、周りの人たちと同じといえば同じ意見だ。
だが、私がこの問題について語らなくなった理由はそのあとの「県民の総意」という語り方に関係している。
この語り方は、複雑な沖縄の状況や多くの人々の心情を十分に反映していないと思うし、その語りへの反発と疑問から、賛成に転じるまではいかなくとも、基地建設反対に与せない気持ちになるのだった。
それが私の中にうまれた「反動」だった。