『生物と無生物のあいだ』と終わらない認識の旅
「生きている」はどう定義できるか?本書執筆の着想について語った福岡伸一氏のエッセイを特別公開!
ウイルスは「生物」なのだろうか
生命とは何か。生きているとは一体、どういう状態なのだろうか。われわれの世界の成り立ちにおいてもっとも本質的なこの問いかけは、ある意味で、人類の文化史が始まって以来、ずっと問い続けられてきた問いでもある。
この問いに答えるためには、生きているものと生きてはいないものを比較すればよい。あるいは、そのあいだに漂っているようなものに着目すればよい。
たとえばウイルス。ウイルスは細胞をもたないし、細胞よりずっと小さい。自分でエネルギーを作ったり、タンパク質を合成することもできない。あまりにも小さいゆえ、普通の顕微鏡(光学顕微鏡)では姿を見ることはできない。
20世紀初頭、野口英世が黄熱病の病原体を発見したと主張した。しかしそれは誤りだった。黄熱病の原因はウイルスであり、彼の死後、電子顕微鏡が登場するまで捉えることができなかった。
電子顕微鏡でウイルスを見ると幾何学的・機械的な形をしている。まるで鉱物か結晶に見える。生き物とは到底思えない。
しかし、ウイルスはいったん他の細胞に寄生すると、宿主細胞の道具を無断借用して、自分自身の遺伝子とそれを格納する殻を複製し、どんどん増えることができる。やがて宿主細胞を蹴破って一斉に飛び出し、次のターゲットを探す。まるでエイリアンみたいだ。
ウイルスは生物だろうか、それとも生物とはいえないものなのだろうか。
それは、当然のことながら、生物をどう定義するかによる。ちなみに生物と生命という言葉の区別も必要になるだろう。
20世紀は、生物学にとってDNAの世紀だった。DNAの発見とその二重らせん構造の解明は、DNAが合わせ鏡のように互いに他を映し合い、それぞれが鋳型となることによって容易にコピーを作り出せることを私たちに端的に示していた。
かくして、DNAの発見は、生物の定義を次のように確定した。生物とは自己複製を行うシステムである、と。この定義に従えば、同じものを次々とコピーし続けるウイルスは、まぎれもなく生物である、ということができる。
「生きている」の新たな定義
しかし……という疑問から、私の本、『生物と無生物のあいだ』は始まる。確かに自己複製は生物の特性ではあるけれど、私たちが生物を見て、それが「生きている」と感じるのは、そのことだけから来るものなのだろうか。
たぶん違う。生物を見て、そこに生命が宿っていると感じるのは、もっと動的なものを、もっと柔らかなものをそこに見ているからではないだろうか。それを言葉で表そうとすれば、一体どのような定義になるのだろう(ここでは、生命という現象を営むいれものをとりあえず生物と呼ぶことにする)。
このようにして私は、もうひとつの生命観──DNAの自己複製にもとづく機械論的生命観とは異なった流れを持つ生命の見方──を跡づけてみようと思った。