腹の中に免許証を隠し……
驚いて妹にそのことを連絡すると、妹夫婦がすごい勢いで自宅に駆け込んできた。ドライブから戻った父に、妹が怒鳴っている。
「もう運転しないって言ったよね。ここに運転はしないって署名捺印して!」
妹が紙を出す。妹の夫も、
「お父さん、この間、約束しましたよね。事故もあったし危ないので、免許証は預からせてください」
追い込まれた父は、今まで二人の前では見せたことのない興奮した顔で「うるさい!」と怒鳴り、免許証を持って2階の自室に逃げた。
大きな音をたてて扉をしめた父を、二人が追っていき、「渡してください」「いやだ」と大声での応酬が聞こえる。私も様子を見に行くと、父は免許証を服のお腹に隠しいれ、ベッドでごろごろ寝転がって「だめだったらだめだ。絶対に渡さない」と必死の形相で防御している。妹の怒号がさらに響く。
そんな修羅場と化した状況を、どこか他人事のように私は見つめていた。これも地獄のようだが、本当の地獄は、他人さまを怪我させてしまった時にやってくるのだろう。
あっけない幕切れ
そんなことがあったのに、まだ運転をやめない父。もはや強硬手段に出るしかないか――しかし、免許返納をお願いし始めてから数年、絶対にやめさせなければと毎日のように説得に失敗しつつけて1年近く経った日、あっけなく幕切れが訪れた。
検査で認知症の中でもピック病の可能性が高いとわかり、専門医を訪れた時のこと。年配の男性医師が「駐車場でこするようになったらやめ時ですよ。せっかくこれまで事故をおこさずきたのだから、卒業したらいかがですか?」とさらっと言って笑顔を向ける。すると父は「もう運転するのはやめます」と無表情で言った。
耳を疑ったが、父はもう一度「やめます」と繰り返した、この間の事故で自信も失い、家族全包囲網にもうんざりしたのであろうか。それまでは女医さんだったから甘く見ていたのだろうか。わからない。12月某日。ディーラーさんが回収に来て、車が消えてなくなった。安堵のあまり私は寝込んだ。
その後、高齢の事故報道を見るたびに、いろいろなことに思いをはせる。必死でやめさせようとしていた家族や友人もいただろう。でも我が家のように、病院や周囲に深刻にやめさせようしない人が多かったのかもしれない。家族の中に「まだ運転させてあげよう」と意見の人もいたかもしれない。
「ご本人の意志」を尊重するのは確かに大切なことだ。しかし、認知症になったら、まっとうな判断ができるのだろうか。そもそも高齢者を認知症検査に行かせることが、どれだけ難しいか。それを病院や役所に知ってほしい。決死の思いで引っ張って行っても、そこで強く止めずに運転を黙認された時の失望感は忘れられない。認知症患者の運転を黙認することは、「ご本人の意思」とは関係なく、本当に危険だ。患者にとって強い説得力を持つ医師だからこそ、「やめさせる権限」がなくてはならないのではないだろうか。
約1年の格闘の日々の後、願うのは、まず医療現場にもっと危機感と責任感を持ってほしいこと。認知症と確定しているなら、本人の意思に反しても運転免許を取り消す手続きに入れることや、認知症の人には運転させてはならない当たり前の事実が、医師や地域をはじめとした多くの人に認識されること。
そして75歳以上は、免許更新を一度したら3年間そのままは長すぎるので、せめて1年ごとの更新にしてほしい。認知症が進行し始めたら、それは転がり落ちるように進んでいき、ある日恐ろしい破綻が訪れる可能性だってあるのだから(これは父が運転をやめた翌年、私が身をもって知ったが、それはまた別の機会に)。
内閣府の調査では、平成28年度、75歳以上で免許証を保持している数は513万人。前年より35万人増加している。免許更新にともなって166万人が認知症の検査をした結果、5.1万人に認知症の疑いがあった。しかし、残る357万人は検査をしないままに運転をすることができるのである。「生きがいだから運転したい」「運転させてあげたい」というレベルではない現実が、目の前にあるのだ。
その後、運転をやめた父は、周囲の勧めに従い、よく歩くようになった。これまた日に4度ほど歩いて、いろいろな買い物場所を見回る日々。
ふと思う。もし、数年越しでようやく父を病院に行かせることができ、認知症の診断が下りたあの日。その医師が「権限はない」と言わずに運転を強くやめさせる説得をしてくれていたらどうだったのだろう。心をすり減らし、修羅場となった1年は、まったく別のものになっていたのではないだろうか。
下記に警察庁が2018年3月段階として公表している各都道府県の、高齢者や認知症など運転をやめさせたい方の相談にのってくれる窓口をお伝えするが、東京など自治体によっては「認知症は別の部署が窓口」ということもあるという(その場合は該当部署の連絡先を教えてくれる)。相談する際には、「認知症と診断された親の運転をやめさせたい」「まだ診断はされていないが、高齢の親の運転をやめさせたい」など、状況と自分の求める目的を具体的に話すといいようだ。
全国都道府県「運転適性相談窓口一覧表」https://www.npa.go.jp/policies/application/license_renewal/pdf/contactpoints.pdf
「道路交通法に基づく一定の症状を呈する病気等にある者を診断した医師から公安委員会への任意の届出ガイドライン」はこちらhttps://jiren-osaka.jp/pdf/ishigakankeisuru.pdf