「シャルリ・エブド事件」とフランスの分断
2015年1月7日に「シャルリ・エブド事件」が起きてから4年になる。
「フランスの9・11」とも言われたこの事件は、フランスでその後続発したさまざまなテロ事件の引き金ともなり、昨年末までにフランスでのテロによる死亡者数の合計は250名を超えた。
特に2015年11月13日のテロは130名もの死者を出し、翌年にはフランスを訪れる観光客が激減した。
だが、2017年には客足が戻り、緊急事態宣言も2年ぶりに解除された。昨年秋から続く「黄色いベスト運動」は再び観光客を遠ざける要因として作用するかもしれないが、テロのピークは峠を越したようにも見える。
とはいえテロは、いったん背景に退いたように見えても、いつでも再浮上して人びとの話題をさらう可能性がある。つい最近も、クリスマス・マーケットで賑わうストラスブールの中心街が標的になった。
「シャルリ・エブド事件」は、フランスと世界に多くの問いを投げかけた。
イスラーム風刺は、表現の自由として擁護されるべきか、イスラモフォビア(イスラーム嫌悪)として糾弾されるべきか。テロ対策としてより重視すべきなのは、取り締まりの強化なのか、寛容な態度を育む教育なのか。
他にもいくつもの問いが思い浮かぶが、ここでは事件に関連する最近のニュースに触れながら、事件後4年の節目に当たり、分断が進むフランス社会において、どのような共生社会が展望されているのかを探りたい。

予審手続きの終了とペテル・シェリフの逮捕
最初に「シャルリ・エブド事件」とは何かを確認しておこう。
この事件名は、2015年1月7日から9日にかけてイスラーム・ジハード主義者の3人がパリで起こした3つの襲撃事件の1つを指す場合と、総称として用いられる場合とがある。
1月7日、サイド・クアシとシェリフ・クアシの兄弟が、風刺新聞『シャルリ・エブド』本社を襲って12人を殺害、11人を負傷させて逃走した。いわば狭義の「シャルリ・エブド事件」である。兄弟は9日に籠城先で射殺された。
この動きと同時並行で、1月8日にアメディ・クリバリがパリ南郊で警官を殺害。翌日にはユダヤ系食品店に立て籠もり、さらに4人を殺害した。彼も同じく9日に射殺された。
1月11日には、フランス全土で370万もの人びとが、「私はシャルリ」を合言葉に、事件の犠牲者に連帯の意を示すデモ行進を行なった。「私はシャルリ」というスローガンの中心にあったのは、表現の自由を守れというメッセージだった。

2015年1月の一連の事件。この予審手続きが2018年11月に終了した。これを受けてパリ検事局は12月21日、14人を重罪院に移送するよう請求した。このあと、特別重罪裁判が開かれる予定である。
14人のなかには身柄が確保されていない3人も含まれる。クリバリの内縁の妻アヤット・ブーメディエンヌ、モハメド・ベルシヌとメディ・ベルシヌの兄弟だ。事件直前に逃亡した3人には逮捕状が出ているが、ベルシヌ兄弟はすでに死亡と推定されている。