SNS時代の「ネクザ」が失った、昭和のヤクザ「ヤバさ」の本質
ギリギリの生命力が爆発していた時代快作『サカナとヤクザ』(小学館刊)が絶好調で、日本でもっともヤクザ現場に強いライターである鈴木智彦氏が、そうした現代ヤクザの生態と、剥き出しの暴力と赤裸々な欲望の化身だった『昭和のヤバいヤクザ』たちの気質を対比する。
ヤクザから失われた生命力の爆発
SNSの普及はこれまで日陰者であった暴力団社会の住人にも光を当てた。
彼らの一部は匿名アカウントをつくり、場合によっては自らの氏名と所属を明らかにして、仮想空間の中で発言を繰り返した。バーチャルとはいっても、人間の集まる場所に変わりはなく、そこでは現実同様のもめ事が発生する。
まるでご近所トラブルのように人間のエゴがぶつかり、匿名性もあって個々の人間性が剥き出しになる。
表に出てきたヤクザや、元ヤクザという属性の人たちは、人間の醜悪さを存分に発揮した。
リアルな現実社会でヤクザを駆逐した半グレたちは、相手が弱いとヤクザの影をちらつかせて脅し、相手が強いと警察を頼るが、彼らも相手によってころころ態度を変える程度は変幻自在だった。
加えて病的に自分を大きく見せようと虚飾を並べ、同じようなポジションの相手に嫉妬し、低レベルの誹謗中傷を繰り返す。
その様子をみていた一般人は、はじめて観る暴力団を典型的な病的気質と判断しただろう。
普段、我々が取材している相手がどれほど肥大した自我を持てあました怪物か分かっていただけただけで、SNSはありがたかった。
ただし、昭和の時代の暴力団社会には、SNSで対立暴力団のネガティブキャンペーンを繰り返すような小物ばかりではなく、彼ら独特の物語を紡ぎ出す傑物たちが全国にいた。
暴力団社会は安易な問題で暴発し、生き死にに直結するため、人間の喜怒哀楽が強調される。
子母澤寛が「やくざものは読んで面白ければいいのです」と喝破したのは、そこに一般常識に縛られて生きている我々には実現不可能なドラマが出現するからだろう。
我々はヤクザたちから人生訓を学びたいわけではない。
求めているのは人間の生命力の爆発であり、それに驚嘆したいのだ。
昭和のヤクザは相手の命も、自分のそれも、まるでおもちゃのように扱った。そこには今の我々には決して真似できない躍動感がある。