2019.02.04
# 日本 # 本

沢木耕太郎が70歳を過ぎても「文章の探求」を続けられる理由

無駄、好奇心、河を泳ぐ力
石戸 諭 プロフィール

習熟するときが楽しい

なぜ今、小説に軸足を移したのか。

《なぜ……。なぜねぇ……。小説に軸が移っていった理由はあるんだろうけど、理路整然とは説明できないかな。

でも、こういうことは言えると思う。ゲームでもなんでも、習熟するときが楽しいことってあるじゃない。

僕にとって小説はたった一人の徒弟修行をやっているようなものだった。若い時代にノンフィクションを書いていたとき、僕はノンフィクションをほとんど読んでこなかった。

だから自由な泳法で、自由に書けた。泳ぎ方を自分で開発したって良かった。その代わり、小説はたくさん読んできた。

そんな自分が小説を書くというのは、先に読んできた作品から影響を受けて、場合によっては何かを模しているということだってあるかもしれない。 

ノンフィクションでは自由自在に書けたけれど、今のところ、僕の小説はオーソドックスなものかもしれない。でもね、この間、徒弟修行をやっているうちに少しずつ、小説の世界の泳ぎ方がわかり始めてきたのではないかという思いがある。

そこを面白がっているんだろうね。小説の泳法を習熟しつつある。そんな状態が今は楽しい。》

フィクションとノンフィクションの差

最初の全エッセイ集『路上の視野―1972〜1982』で比較的多くの分量が割かれているのが、代表作の一つ『一瞬の夏』にまつわるものだ。

この作品は「私=沢木」がプロボクサーのカシアス内藤のカムバックに深く関わり、見たこと、実際に立ち会ったことを元に描いたノンフィクションである。沢木は第三者的な取材に依拠することなく、自らが体験し、自らが動くことでシーンを獲得する「私ノンフィクション」という新しい方法を提示した。

銀河を渡る』には、同じボクシングという題材を扱い、タイトルに季節が入る小説『春に散る』についてのエッセイがある。

『一瞬の夏』について書かれたエッセイで、沢木はフィクションとノンフィクションの差を「薄い皮膜」に例えた。そして、描く中で自分が皮膜を突き破ることはしなかったが、触れたと書いている。

小説を書くなかで、皮膜を破いたという感覚はあるのか。『銀河を渡る』には不思議な一節がある。

いま、フィクションは銀河の向こうにあるのではなく、銀河を渡るという行為の中にあるのかもしれないと思いはじめている。

《『一瞬の夏』はフィクションに触れかかったけど、すべてノンフィクションのルールで書いた作品だよね。これはすごく新しいものを書いたと思う。

『春に散る』は小説としてものすごく新しいわけではないだろう。徒弟修業中だから偉そうなことは言えない。でも、泳法への挑戦はしたと思っている。

『春に散る』について、ある映画監督にこんなことを聞かれた。この作品の登場人物や試合に具体的なモデルがいるのか、土地はどこをモチーフにしたのか。その答えは一切「ない」だね。もう少し正確に言えば、99・9%以上がフィクションであり、本当に細かいところだけを除いて、事実に依拠したものはない。

『一瞬の夏』がすべて「私」という眼に映るものを切り取って描くという試みなのに対して、『春に散る』はすべてイマジネーションだけで描くという試みなんだよね。

今、小説を書いていて思うのはフィクションとノンフィクションの間にあった皮膜を突き破るという感じではなくて、飛ぶという感覚かな。

皮膜は確かにあるのだけど、その上には河が流れている。その河をいろんな泳法を試しながら泳いでいるということだよね。》

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