2019.02.04
# 本 # 日本

沢木耕太郎が70歳を過ぎても「文章の探求」を続けられる理由

無駄、好奇心、河を泳ぐ力
石戸 諭 プロフィール

「スクエアな文章」が書きたい

フィクションとノンフィクションの違いから、話は沢木がこだわる「文章」の書き方に移行した。事例に挙げた「茶碗」の例えに矜持が宿る。

《小説もノンフィクションもエッセイも、ただの一回も後世に残る名品を作りたいと思ったことはなかった。ただできるだけ使い勝手が良いもの。そう、使い手がその気になれば100年は使えるような茶碗、時間に耐えうる丈夫な茶碗を作りたいとだけ思ってきた。

この仕事で時間に耐えうることを何で保証するかといったら文章だよね。

文章を、強固に精密にする努力をして、圧倒的に時間を費やす。例えていうなら茶碗に使う粘土を強靭にするということかな。そのための時間を惜しんだことはないし、他の作家と比べても相当多い方だと思う。》

「文章を強くするために曲げていない原則はありますか」と重ねて聞いた。

《文章の原則は、センテンスを短くすることにある。なるべくセンテンスを短くする。でも、センテンスを短くしても長くなってしまうとき。そこには何かがあるんだよね。

原則は短く、それでも長くなってしまうセンテンスにこそ情感がこもる。長いなと思われて、読まれないとそこで終わり。長いセンテンスを短いセンテンスと同じように読みやすくすること、すっと読めるようにすることが大事だと思っている。

短いセンテンスはボクシングで言えば、ジャブ。これが基本になってリズムを作る。でも、大回りになっても効果的な右フックはあり得るよね。あらゆる文章を「すべて短くせよ」では足りないものがある。僕はそれをかなり最初期からわかっていた。

あとはね、僕はスクエアなもの、つまりかちっとした文章が好きなんだと思う。ずっと正確で、スクエアな文章が書きたいと思ってきた。》

無駄な時間が大事

『全作家論』は小説を愛読してきたノンフィクションの書き手が、他の作家たちの作品をどう読んできたのか。その遍歴であり、影響を探る作品集としても読める。技巧を詳細に論じるのではなく、作品を通じて書き手への理解を深めることに重きが置かれる。

論集の最後を飾るのは大学の卒業論文「アルベール・カミュの世界」だ。22歳で書いた作品の中にすでに沢木らしさが垣間見える。

発表を前提に書かれていないはずの卒論をあえて最後に持ってくる。自身の原点だという思いがあるからではないか。

《もちろん文章はいかにも20代前半の若者だなという感じの粋がった言葉はあるけれど、人の理解の仕方は変わっていないよなと自分でも思う。

カミュでも、ある時に彼を直感的に理解した瞬間があった。女性の描き方と、貧困の捉え方を捕まえたら書けると。

人の捕まえ方は僕の個性になっているからこそ、論集に入れても違和感がない。カミュを直感的に理解したのと同じ人物理解の仕方を、僕は人物ノンフィクションでもやってきたし、作家論でもやってきた。そういうことなんだろうね。

こういう無駄な時間が大事なんだよ。》

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