日本人であることを強要された「元BC級戦犯」の苦悶

いつ命を奪われるか分からない日々に…
栗原 俊雄 プロフィール

「日本のため」だったのに、死刑

1945年夏。大日本帝国の敗戦で、ナチスドイツのポーランド侵攻以来6年に及んだ第二次世界大戦は終わった。しかし李さんたちにとっては、2019年の今日まで続く、別の戦争の始まりでもあった。

李さんら監視員は「捕虜虐待」の疑いで逮捕され、シンガポールの刑務所に入った。李さんは一度、解放された。日本に向かうべく香港に移ったところ再び拘束され、裁判を受けることになった。元捕虜9人から告発されていた。全員帰国しており、反対尋問はされなかった。つまり、告発者の証言に記憶違いや虚偽があったかどうかを確かめる機会はなかった。

 

さらに判事、検事とも戦勝国のオーストラリア人。およそ人道的とは言い難い裁判で下されたのは、「死刑」。「まったく予想していませんでした」。李さんはぼうぜんとした。「手錠をかけられて、その冷たさで我に返った」。

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敗戦後、「捕虜虐待」などの理由で朝鮮人148人が「戦犯」とされた。そのうち23人が処刑された。李さんは、処刑されてゆく仲間を見送りながら考えた。「どうして、日本の戦争のために自分が死ななければならないのか」。納得できるはずもなかった。処刑に値する罪はない。そして、いつ命を奪われるか分からない。どれほど苦しんだのか、想像しがたい。

告発した9人の中には、ダンロップ軍医がいた。泰緬鉄道の現場で、仲間の捕虜を守るために軍医は、李さんと厳しく対立した。そのダンロップは、李さんの死刑に反対した。そこまでの罪ではない、という判断だ。李さんは懲役20年に減刑された。2人は1991年、豪州国立大のセミナーで再会し和解することになる。ぎりぎりのところで、人道の輝きがあったというべきか。

東西の冷戦が本格化する中、「戦犯」たちも翻弄された。1951年8月、李さんは東京の巣鴨プリズンに移された。今は東京・池袋のサンシャインシティ、都内屈指の繁華街だ。

翌年4月にサンフランシスコ講和条約が発効し、日本が独立を果たすと「戦犯」たちの扱いは緩やかになった。外出ができた。プリズン内で新聞が発行された。収容所の中で自動車の運転免許を取ることもできた。

「著名な芸能人やスポーツ選手が慰問に来ていましたね。私たち朝鮮人の所には来ませんでしたが」

「戦犯」たちの釈放が続いた。しかし朝鮮や台湾の出身者、大日本帝国時代の「日本人」たちにはさらなる不条理があった。意志を聞かれることなく、一方的に日本国籍をはく奪されたのだ。

戦争にまみれていた大日本帝国には軍人恩給があった。だが、連合国軍総司令部(GHQ)はこれを軍国主義の温床として停止させた。日本政府は独立した1952年、これを復活させた。前年には戦傷病者戦没者遺族等援護法を施行している。いずれも、対象は日本人だ。李さんら旧植民地出身者は、「日本人」として大日本帝国の戦争犯罪を背負わされた。そして「日本人ではなくなった」ため、「日本人」が受けている補償から切り捨てられた。

55年4月。獄中にあった李さんら韓国人元BC級戦犯が「同進会」を結成した。「戦犯」や家族らが支えあうための団体だ。さらに日本政府に対する援護請求などの拠点となった。李さんは56年10月に巣鴨を出所した。仲間とともに首相官邸前に座り込むなど、補償を目指して運動を続けた。

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