アメリカ相手に啖呵
豪快とは少し違うが、三國連太郎も規格外。役作りのために歯を10本抜いたこともある名優は、自らのコンプレックスを隠さない。自著『おんな探求』('78年)に掲載されている岩下志麻との対談は衝撃的だ。
「三國さんの臆病はどこからきているんですか」
そう質問されて、三國はこう答える。
「やっぱり短小包茎からでしょうね」
なぜそんなことを急に言い出したのか……。
前出のなべおさみは、三國からこう言われたことがあるという。
「もしも女を好きになったら、昨日まで好きだった女を捨てることだってあるよな。
でも、それじゃ無責任だろ。だから、オレは全財産を前の女にあげて、新しい女とゼロからやり直すんだよ。だから毎回貧乏なんだ」
なんとも正直である。
「三國連太郎さんの筋の貫き方だけはマネできません」(なべ)
昭和の時代は政治家も経営者も元気だった。ノンフィクション作家の佐野眞一氏は、ダイエーを創業した中内㓛の強烈な印象をこう明かす。
「たまたま中内さんと同じ飛行機に乗ることがありました。彼はエコノミー席に座っていたんですよ。
『ファーストクラスではないんですか?』と私が尋ねたら『ファーストクラスに乗ったら目的地に速うつくんかい』と。中内さんの人柄を表した出来事でしたね」
中内は、第二次世界大戦ではフィリピン戦線に一兵卒として赴いた。終戦後はヤミ市からスタートし、一代で日本一のスーパーマーケットを築き上げた名経営者である。
「戦争で一番の恐怖は何だと思う?」
佐野氏は中内からそんな質問を受けたことがあるという。
「私が『敵が撃ってくる弾丸ですか』と答えたら、中内さんは『夜、隣で寝ている日本兵だよ』と。そのときこの人は、人間の極限状態を実体験した人なんだって思いました。
'95年の阪神・淡路大震災では、中内さんは被災地のダイエーやローソンの照明を24時間つけておくように指示しています。それは中内さんが、戦争体験を通じて暗闇が与える恐怖を知っていたからでしょう。
『戦争による飢餓で苦しんだ日本人に腹いっぱいになるまで牛肉を食べさせてやりたい』。その思いが『いくらで売ろうと勝手、メーカーに文句を言わせない』という価格破壊の発想を生み、強い原動力になったんだと思います」
佐野氏は中内と一緒にダイエーの店内巡回に同行したこともある。
「パン売り場に立ち寄ったのですが、中内さんはすぐに5mくらい離れた場所に行き、そこで深呼吸を始めて、大きくうなずきました。そこでパンの香りがしなければ、不合格。すぐに改装を命じていたといいます。
また、野菜売り場でもやしを手に取ったかと思うと、『これはお客さまに出すものじゃない』と、突然フロアに放り投げたのにも驚きました。
チラシの裏面が真っ白だと、『宣伝を入れろ』と改善するように指示を出した。良い品をより安くをモットーに、それを徹底した人です」

政治家では、浜田幸一のような議員は平成の世には死滅してしまった。バリケードを撤去しながら、「かわいい子供たちの時代のために自民党があるってことを忘れるな」と叫んだ姿は今も記憶に新しい。元浜田幸一後援会幹部で元袖ケ浦市市長の小泉義弥氏が語る。
「浜田先生は直言居士の政治家。日米漁業交渉の話ではこんな話もありました。アメリカが日本に対し『こちらの水域にいる魚を獲るな』と迫ってきたとき、先生は即座に、『わかった。日本はアメリカの魚は獲らない。その替わりにアメリカの魚には全部星条旗を付けておけ。そうすればアメリカの魚は獲らない』と、交渉の相手に向かって言ったんです。
選挙のときの有名な話もあります。普通の議員なら、田植えをしている人たちに向けて、選挙カーの中から手を振るくらいでしょう。
しかし、浜田先生は革靴で田んぼに入って、『おやじさん、お母さん、頼むよ』と頭を下げる。ここまでする先生は他にいませんよ」
民社党委員長を務めた野党代議士・春日一幸を覚えているだろうか。彼ほどおおっぴらに浮気をしていた政治家はいない。夫人との間に娘が二人、3人の愛人の間にもそれぞれ一人ずつ娘がいた。
艶福家なだけでなく、県議時代には議会で3時間にもおよぶ反対演説をした熱血漢だった。春日の元秘書である名古屋市長の河村たかし氏が言う。
「人間臭いところがあり、自民党支持だった地元、名古屋の中小企業の社長の多くが、春日さんのファンになりました。また、実は春日さんは家族想いの人なので、後援会婦人部からもとても人気がありましたね」
政治評論家の森田実氏も言う。
「春日の口癖は『理屈は後で、貨車で送る』で、はじめに行動ありき。『愛人をとるか、書記長をとるか』と批判されたときも、あっさりと『愛人を』と発言したこともあったが、一対一で政策の中身の議論となると真剣そのものでした」
ハマコーも春日も、キナ臭い噂が絶えなかったが、彼らのような政治家がいない永田町は退屈だ。