女性の社会進出を促した一番の功労者は「生理用ナプキン」だった

知られざる「生理用品の歴史」
田中 ひかる プロフィール

高名な医師たちは、月経中に刺激を受けると精神疾患を発症しやすいとし、読書や芝居、寄席見物などを禁じた。さらに、経血処置法についても、好ましい方法と好ましくない方法を説いた。

好ましいとされたのは、布や紙、脱脂綿をナプキンのように当て、丁字帯などで押さえる方法で、好ましくないとされたのは、タンポンのように詰める方法だった。

当てる方法では、布や脱脂綿がずれたり落ちたりすることがあり動きづらかったが、その方が安静が保てるため、むしろ「利点」とされた。

動かざるをえない働く女性たちは、必然的に詰める経血処置を行っていた。例えば、工場で働く女性たちは、布や脱脂綿を使って手製のタンポンを作り、長時間の労働に耐えていた。もちろん、現在の既製品タンポンのように、取り出すための紐などついていなかった。

 

「血のりでガバガバになったのを…」

既製品の生理用タンポンが登場するのは、1938(昭和13)年だが、前年に始まった日中戦争の影響で脱脂綿が不足し、早々に発売中止となった。

また、タンポンは性道徳上、好ましくないという考えが根強く、東京女子医科大学創設者の吉岡弥生は「女の神聖なところに男以外の物を入れるとは何事ぞ」という言葉を残している。

こうした偏見は戦後になっても根強く、「タンポンを使うとお嫁にいけなくなる」と思い込んでいる女性が大勢いた。

戦前の女性たちの口述記録からは、銘々が経血処置の方法を工夫していたこと、そして不便で不衛生な処置に甘んじていた様子がうかがえる。

「お母さんがふんどしみたいなのをこしらえてくれた」
「やわらかくした和紙を脱脂綿でくるんで棒状にし、下から突っ込んだ」
「脱脂綿は一日に何回か取りかえるのだけれど、それでも丁字帯は血でカラカラにひからびて、かたくなっちゃうの。血のりでガバガバになったのを一日中してなきゃならないのは、つらかったね。それをバケツの水につけて洗って、物置きの中に干したのよ。本当は日光に当てて干したかったけど、不浄なものだからお日様にあてちゃいけないって言われたのよ」(1)

戦中は脱脂綿の代用品として「紙綿(かみわた)」が開発されたが、それさえも不足した。また、栄養不足や空襲のストレスなどが原因で「戦時性無月経」に陥る女性も少なくなかった。

戦後、1951年に脱脂綿の配給制が解除されると、「ゴム引きパンツ(股の部分にゴムが貼ってあるショーツ)」で脱脂綿を押さえるという経血処置法が主流となる。

しかしこの方法は、ゴム製であるため蒸れやすく、その結果、皮膚がただれたりかぶれたりするという欠点があった。また、経血が漏れたり、脱脂綿が転がり落ちたりすることもままあった。

女性たちがこうした「粗相」を恐れて、月経中は運動や仕事はもちろん、ちょっとした外出さえ控えようと考えるのも致し方なかった。一歩外に出れば、まだ駅のトイレも公衆トイレも整備されておらず、女性用トイレがない会社も多かった。

生理用品が心許ないばかりに、女性たちは活動を制限せざるを得なかったのである。

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