「ゆとり教育」論争の不幸と不毛
このことから、1990年代末〜2000年代初頭の「ゆとり教育」論争における不幸と不毛を見出すことができます。
寺脇にしろ和田にしろ、その背景には確固たる社会に関するビジョンがあったわけです。
例えば寺脇については、教育を社会に開くことで子供の人生観を豊かにしたい、また和田については、競争を否定することにより階層が固定された社会を目指すのか、というものが主張の背景にありました。
しかし、そういった社会観と実践法のすりあわせは、「学力低下」論、そして若い世代が「劣化」しているという言説の圧倒的な物量にかき消され、後には「ゆとり世代」と呼ばれる若者への偏見のみが残ったのです(そしてそれに対しては和田も少なからず荷担していた)。
これこそが「ゆとり教育」論争の不幸と言うことができます。
そして不毛というのは、これらの論争において明らかに置き去りにされたものがあることです。それこそが、「ゆとり世代」とバッシングされた若い世代への偏見の払拭です。
学生、そして新入社員や若手社会人に対する教育や指導などは、もはや「ゆとり教育」「ゆとり世代」という概念とは切っても切り離せないものとなっています。
それは、先に示した柘植智幸や大堀ユリエなどといった若手社員指導法の本の著者が、積極的に書名に「ゆとり教育」という言葉を使っていることにその一端が見られます。
そして、寺脇にしろ和田にしろ、そういった若者の現状については目立った発言をしていないのが現状です。
寺脇は、教育実践者などを招いて対談を使って自分の主張の正当性を裏付けようとしたり、「ゆとり教育」で育った若者の革新性を称賛したり、保守色、統制色を強める教育政策に対して異議を唱えていますが、そもそも自分の蒔いた種である「ゆとり世代」と呼ばれる世代へのバッシングそのものを解体することに対しては消極的です。しかし、いま求められていることは、まさにこのような作業に他なりません。
「平成」が終わろうとしているいま、そして「昭和生まれ」全員が少なくとも30歳以上になってしまった中で、ネット上では定期的に「平成生まれにはわからないこと」「昭和生まれっぽい発言をしろ」というネタが盛り上がります。
しかし、そういう「遊び」もまた、「ゆとり世代」バッシングと同様、「世代」という恣意的に作られた概念で自らを特権化する行為に他なりません。「ゆとり教育」論がもたらしたものの弊害について、改めて考えなければならないのです。

