実際には、ロングフル・ライフ訴訟はどの国でもほとんど認められていない。だが、2000年にフランスの最高裁が実質的に「生そのものという損害」を認めた通称「ペリュシュ事件」はフランス社会を揺るがす大きな社会問題となり、日本の大新聞でも報道されたし、アメリカの一部の州や、オランダ、イスラエルなどでは、部分的にではあれロングフル・ライフの訴えが認められている。
日本でも数年前に、おそらく国内では初めて、ロングフル・ライフ訴訟と呼ぶべき内容をもつ訴訟が起こされた。このときは訴えは退けられたが、今後また同様のケースに直面したとき、私たちはどのように対応していくべきだろうか。
生まれて存在することをめぐる謎
以上のように、ロングフル・ライフ訴訟には重い倫理的問題が含まれている。だ
がそれだけではない。そこには、より普遍的な哲学的考察へと私たちを誘わずに
はおかない面がある。
私たちは、生きていることが苦しくてたまらなくなったとき、ふと「生まれてこなければ良かった」と呟くことがある(そんなことは思ったこともないという幸せな方は除きます)。
ほとんどの場合、それはたぶん、苦しいという思いの最上級の表現にすぎない。けれども、その命題に潜む意味を真正面から突きつめて考えていくなら、深遠な謎が次々に姿を現してくる。
生まれない方が良かったという主張は本当に矛盾にすぎないのか? あなたが、「障害」に限らず、現実のあなたとは異なる性質をもって生まれることはありえたのか? あなたが実際よりも一ヶ月早く、あるいは遅く生まれていたら、それはあなただったのか? 一人の人にとって、別の人生というものはありうるのか? そもそも、あなたがあなたであるのは、どうしてなのか?
サミュエル氏の物議を醸す言動は、けっして単なる空騒ぎとして片づけられるものではなく、このように私たちの存在の意味にかかわる謎への扉を開いて見せてくれたのである。