いつも一緒の二人だった

結婚して40年、「いつまでも純愛だね」と、周りから感心されるほど仲のいい夫婦だった。朝起きるのも、寝るのも、食事をするのもいつも一緒。考え方も、教育者としての志も一緒。今の自分があるのは英子さんのおかげ。その妻を失うことなど考えられない……。

奄美大島に旅行に行ったときの写真。いつも一緒で仲の良さは有名だった 写真提供/岩本泰則

岩本さんは、不安と恐怖で途方に暮れ、涙を流した。それでも、ただ泣いてばかりはいられない。残された時間が限られているならば、後悔しないように最大限に寄り添い、最期まで濃密なふたりの時間を作ろう。岩本さんの胸に、そんな強い決意が浮かんだ。
 
中学の校長まで勤め上げて定年退職した後も、岩本さんは市の教育委員や「茨城学びの会」代表などを歴任。県内外の学校に招かれ、教師への研修や講和をすることも多かった。後進の支援をライフワークとして忙しい日々を送っていた岩本さんだが、「余命宣告」以降は、学校からの研修依頼もできるだけ断り、妻との生活を最優先にした。
 
「すべてを受け入れること」。それが、余命宣告を受けた妻に対する、岩本さんの寄り添い方だった。英子さんの気持ちを汲み取り、同化して、言葉を選んで発したり、あるいは発しなかったり。何よりも本人の意思を尊重すること。そして、決して否定しないことを心がけた

病と闘う夫婦の気持ちはもとよりひとつだったが、唯一、英子さんが頑固に主張したことがある。深刻な病状を、周囲には知られたくないということだ。
 
しっかり者でいつも周りから頼られていた英子さんは、心配されたり、労われたりすることが嫌だったのだろう。病状が進み、どんどん体調が悪化する中でも、友人や仕事仲間、ご近所にも、病気のことをひた隠し、他人の前では常に明るく元気にふるまい続けた。夫にしてみれば、誰かに真実を打ち明け、弱音を吐きたいこともあったかもしれない。だが、岩本さんは英子さんの意思を汲み、夫婦だけで病と向き合ったのだった。

 

別の世界を持っていて救われた

では、そんな岩本さんの心の支えは何だったのだろう? それは「仕事」だったと、岩本さんは当時を振り返る。
 
余命宣告以来、英子さんとの時間を第一にしていた岩本さんだが、できる範囲で学校訪問や研修活動も続けていた。妻の辛い闘病に寄り添いながらも、一方で、生きがいでもある仕事、別の世界を持っていたことが、岩本さんの救いになっていたのだ。
 
家族の病気に寄り添う時、その苦しみを目の当たりにし、いつも気を張り詰めていると、伴走する人間まで疲弊してしまう。仕事に限らず、趣味でも友人との付き合いでもなんでもいい。自分自身の時間を持って、上手く心のバランスを保つことが大事なのだろう。
 
余命宣告からの4カ月は、薄氷を踏む思いの毎日だった。英子さんの体調の変化や、検査の結果に一喜一憂する日々。それでも、本人の頑張りと抗がん剤の効果のおかげか、「9月まで持つかどうか」と言われた9月になっても、英子さんは自宅で日常生活を送ることができていた。しかし、口内の荒れや手足のしびれなど、抗がん剤の副作用は厳しい。このままでは完治の見込みはなく、結局は抗がん剤で体力を奪われ、じょじょに死に向かっていくのではないだろうか……。