昭和33年4月2日から34年4月1日までに生まれた世代が、今年度、還暦を迎えた。2019年4月1日までに全員が60歳になる。60年の人生を年号で区切れば、昭和と平成を半分ずつ生きてきたことになる。
少子化以前の世代の中で最も出生率が低かった年度のわりには、各界の著名人は多士済々、個性的なメンバーがずらっと揃う。
高度成長期に生まれ、政治の季節が終焉してシラケた空気の中に青春を過ごした若者たちは、日本という国がバブル期を頂点として徐々に失速していくなかで、どんな時代を作り、どんな足跡を残したのだろうか。
東京タワー誕生と同時に生まれた高度成長期の申し子
昭和33年(1958年)3月31日、赤線(公認で売春が行われた地域)が廃止された。これは戦後動乱期の終焉を感じさせる出来事である。その翌々日の4月2日から1年間に生まれたのが今年度中に還暦を迎える我々の世代だ。
年間出生数が260万人を超えるいわゆる「団塊の世代」から約10年後、「団塊」より年間出生数が約100万人少ない「断層の世代」でもある。
昭和33年度には、1万円札が発行され、東京タワーが完成。朝の連ドラ『まんぷく』のモデルである安藤百幅が最初のインスタントラーメン「チキンラーメン」を発売し、5年後の東京オリンピック開閉会式の会場となった“初代”国立競技場も完成している。

週刊少年漫画誌の先がけ「週刊少年マガジン」(講談社)と「週刊少年サンデー」(小学館)も、年度末の昭和34年3月創刊だ。我々の世代は、生まれたときから漫画漬けで育った最初の世代だといっていいだろう。ちなみに「少年サンデー」創刊号の表紙は長嶋茂雄。長嶋は昭和33年4月、巨人でプロ野球選手としてデビューし、いきなり大活躍したことによって、初めてプロ野球が東京六大学を中心とする学生野球より人気の面でまさったと言われている。

前後数年間と比べてもかなり動きが激しく新時代の幕開けと言ってもいい1年、それが我々が生まれた昭和33年度だった。
東京オリンピックを記憶する最後の世代
1つ年下の友人は「1964年の東京オリンピックは、うすぼんやり聖火リレーの記憶があるくらい」と言う。私は、ボブ・ヘイズも東洋の魔女もアントン・ヘーシンクもマラソンで円谷幸吉が国立競技場に入ってからイギリスのベイジル・ヒートリーに抜かれた瞬間も感動的な開閉会式もよく覚えている。同年齢の皆さんはみなそうではないだろうか?
どうやら、当時、幼稚園の年長だったか、年中だったかによって、東京オリンピックの記憶の濃さが違ってるようなのだ。つまり、我々昭和33年度生まれが、1964年の東京オリンピックを直接的に知る最後の世代なのだ。ついでに付け加えると、翌65年(昭和40年)からの義務教育9年間が巨人の9連覇と重なるというかなり偏った刷り込みもされている。

小学校6年生のときには、大阪で日本万国博覧会、通称「万博」が開かれ、私もそうだが、多くの同級生が行っただろうと思う。私はアメリカ館、ソビエト館などの長蛇の列には並ぶ気になれず、もっぱら簡単に入れる小国のパビリオンに入ってはスタンプを押しまくっていた。「人類の進歩と調和」がなされたかどうかはわからないが、なんとなく世界の国々を知ったような気になって小学校を卒業した。
