80年代の日本代表の10番の代名詞
野球以外のスポーツ界では、まずは陸上女子走り高跳びの八木たまみである。1978年、身長(164㎝)より26㎝も高い日本記録1m90㎝を跳んだ。身長差26㎝のジャンプは当時の世界記録。彼女は1980年モスクワオリンピック幻の日本代表でもあるのだが、八木たまみの活躍を覚えている同級生が意外に少ないことを最近になって知り、私はむしろそのことに驚きを禁じ得ない。
同級生オリンピアンは多数いるが、モスクワオリンピックボイコットの影響もあり金メダリストはただ一人、1984年のロサンゼルス・オリンピック、レスリングのグレコローマンスタイル52㎏級の宮原厚次である。彼は全日本選手権で1981~88年の8連覇を含む9回も優勝を飾っている偉大な選手だ。
サッカー界では、国際Aマッチ日本歴代4位の37点を挙げ、日本サッカー協会技術委員長を務めた原博実、80年代の日本代表の10番の代名詞といっていい存在で、韓国との激闘を繰り広げたフリーキックの名手木村和司、ワールドカップで優勝した女子日本代表監督の佐々木則夫、また監督、コーチとして数々の実績を残した山本昌邦がいる。Jリーグがスタートした1993年にはすでに35歳。彼らの全盛期は、プロ選手となることもワースドカップに出場することも、まだ夢のまた夢の時代だった。プロとしてプレーできたのは木村和司だけだ。

おニャン子&AKBと小室ブーム
1985年から始まった『夕焼けニャンニャン』(フジテレビ系列)に関わった放送作家で、作詞家の秋元康は、天才仕掛人と言っていいだろう。おニャン子クラブの曲の大半を作詞し、1986年にはおニャン子クラブ関連でオリコン1位を36曲も記録した。秋元康は、その後、美空ひばり不朽の名作『川の流れのように』を作詞。2000年代以降にはAKB48や乃木坂46といったアイドルグループの仕掛人として、次々にヒット作を生み出し、今も芸能界のど真ん中を闊歩し続けている。

もう一人の天才同級生は小室哲哉だ。1987年にTM NETWORK10枚目のシングル『GET WILD』が初めてヒットするまではかなり苦労もしたが、そこから表舞台に躍り出た。彼の功績は自身の活躍よりもむしろ、小室ファミリーと呼ばれる人たちを世に送り出したことである。昨年引退した安室奈美恵もその一人。「小室ブーム」といわれた90年代は、彼が疾走した時代だった。
