歌人の鈴掛真さんは、ゲイであることを公表して短歌やエッセイでも活躍中。歌も多く収録したエッセイ『ゲイだけど、質問ある?』では率直な質問に真正面から答えています。そんな鈴掛さんが「解放された方が多くの人が幸せになるのでは」と思う多くの習慣について綴っていくエッセイ。「スズカケ・シン」という名前で中学の教鞭にも立っている鈴掛さんに、「本名」というものについて考えてもらいました。
「本名であること」を求められるのはなぜ?
まだ瞼
閉じた夜明けに
まだ誰も
呼んだことない
名前で呼んで
こんにちは。歌人の鈴掛真です。5・7・5・7・7の短歌の作家です。
珍しい苗字だからか「スズカケシンさんて、本名ですか?」と訊かれることがよくあります。ずばり、本名ではありません。約10年前、作家活動を始めるにあたり、自分で名付けたペンネームです。本名は非公開。
僕は常々、疑問に思います。どうして社会では、こんなにも『本名でいること』を求められるのでしょう。
僕がペンネームを作った理由は他でもない、本名がいたって平凡だからです。
仮に『山田太郎』だとしましょう。
幼い頃、苗字や下の名前がカブっている子がクラス内にいました。先生から「山田くん」「太郎くん」と呼ばれたと思ったのに、呼ばれたのは自分じゃなくてもう一人の山田くん、太郎くんの方だった、なんてことが日常茶飯事。『山田太郎』は、単純にめんどくさい。あだ名で区別してもらえばある程度は解決できますが、社会に出るとニックネームばかり使ってもいられません。
「もしも同姓同名の作家がいて、インターネット検索や書店の検索機で、同じ名前の人が並んでいたらまぎらわしい」と、ペンネームを作りました。『鈴掛』はプラタナスという木の和名が、『真』は学生時代に読んでいたマンガのキャラクターが由来です。
作家でなくとも、山田太郎じゃなくとも、漢字が難しかったり、難読だったり、近しい人に同姓同名がいたり、キラキラネームだったり……みなさんも多かれ少なかれ、自分の名前に不便を感じたこと、ありませんか?
誰もが『本名』に縛られて暮らしてる
社会で『本名』とされているもの、それは『出生名』ですね。
つまり、親から受け継がれた『姓』と、親が付けてくれた『名』。この世に生を受ける前から「どんな名前がいいかしら?」と、親が何日も頭を捻って考えてくれた、大切な贈り物。それはとても素晴らしいことです。
けれど、逆に言えば、それは生まれてから死ぬまでの間、永久に背負わなければいけないもの。自分という存在を表し、他者と区別するため、自ら名乗ったり、誰かに呼ばれたり、日々の生活の中でとても重要な役割を持つ『名前』。それだけ重要なものなのに、本人が物心付く前から、名前はあらかじめ決められています。
肉親とは言え、自分ではない人が勝手に付けたものを『本名』として、私たちは名乗り続けなければならないのです。物心が付いて、『山田太郎』の不便さに気付いても、もう手遅れ!
重要度のわりに、自分で決められないなんて、なんだか矛盾していると思いませんか?