「令和」誕生の舞台「梅花の宴」を万葉研究の第一人者が解説
太宰府は文化交流最先端の地だった梅花の歌三十二首と序
7世紀の後半に成立した律令国家は、律令という法と、その法体系に位置付けられた役人すなわち官人と、官人らが発給する命令文書によって運営される国家であった。その律令国家の成立に伴い、畿内の豪族たちは、貴族になると同時に、官人になっていった。官人として生きる道を選んだ豪族たちは、官人として地方赴任を経験することになったのである。彼らは、赴任先でどのような宴を催したのか?
『万葉集』の巻五に、「梅花の歌三十二首〔并せて序〕」(815〜846)という歌群がある。天平2年(730)正月13日のこと、大宰帥(だざいのそち)すなわち、九州の各国を統括する大宰府の長官であった大伴旅人(おおとものたびと)(665-731)の宅で盛大な雅宴が開催された。大宰府が所轄する各地域から、風流を解する官人たちが集まって、梅見の宴としゃれこんだのである。これが、文学史上名高い「梅花の宴」である。なお、官名を表す場合は「大宰」「大宰府」、地名を表す場合には「太宰府」と表記する。
歌の伝来
この三十二首には、序文がついているのだが、その序文は、晋の王羲之(おうぎし)、すなわちかの書聖が書いた「蘭亭集序(らんていしゅのじょ)」や、初唐の王勃(おうぼつ)、駱賓王(らくひおう)などの詩序の構成を真似たものである。
というより、古代の文章は、先例に倣うのを常としていた。多数派学説では、大伴旅人その人の作とされるが、諸説があり、不明というほかはない。第一、作者の名が書かれていないのだ。
では、私は序の作者についてどう考えているかというと、実作者が存在することは間違いないとしても、その名を記さないことにこそ、むしろ積極的意味があると考える。したがって、序の作者を詮索する必要などないのではないか。
大宰大弐紀男人(だざいのだいにきのおひと)・少弐小野老(しょうにおののおゆ)・筑前国守山上憶良(ちくぜんのくにのかみやまのうえのおくら)・造筑紫観音寺別当(ぞうつくしかんのんじのべっとう)の満誓の面々は、いずれも旅人と交遊があったとおぼしき人士で、「筑紫歌壇」と称せられるグループに属する人たちである。いわば、旅人を中心とする文芸サロンの重要人物たちである。と同時に、彼らは、当時の日本を代表する知識人たちであった。彼らは、平城京から遠く離れた九州の地で、交遊し、互いの歌をやり取りしていたのである。
旅人は、4月6日付の書簡を添えて、「松浦川(まつらがわ)に遊ぶ序」および歌群(巻五の八五三〜八六三)と伴に、平城京の吉田宜(よしだのよろし)に贈ったことがわかっている。それは、吉田宜の返事の書簡と、そこに添えられた返事の歌によって確認することができるのである(巻五の八六四、八六五)。最新の研究では、書簡として送られた歌々が、『万葉集』の巻五に入ったと考えられている〔村田 2013年〕。