四肢のない乙武洋匡氏がエンジニアの遠藤謙氏と出会い、ずっと温めていた「OTOTAKE PROJECT」。エンジニア、研究者、デザイナー、義肢装具士、理学療法士といったプロフェッショナルたちがその知恵と技術と努力を結集して乙武氏を歩かせようとし、乙武氏は自らを「広告塔」と位置付けて歩く姿を晒している。

連載第2回では、40年以上前に遡り、幼児期の乙武氏と義足との出会いをお伝えする。今回その存在が明らかになった記録映像『頑張れヒロくん』が映し出すものとは――。

「乙武義足プロジェクトの挑戦」連載第1回こちら

 

42年前の「重要会議」

私が1歳半になった1977年の秋ごろ、東京都補装具研究所ではきわめて重要な会議が行われていた。

長机がロの字型に置かれ、黒板の前の席には研究所所長で日本のリハビリテーション医学の第一人者、加倉井周一先生が足を組んで座っている。紺のジャケットに赤いネクタイが映える。そのとなりには、白い丸襟のニットを着た母の姿。ふたりの左右には、医師や理学療法士、義手や義足を手がける技術者たちが向かいあうように着席していた。総勢8名。ピーンと張りつめた緊張感が漂っている。

机の上には、幼児用の小さい義手や義足が並べられ、出席者たちが補装具の使用や今後の訓練方法について語り合っていた。真剣にメモをとる人もいれば、腕を組んで考え込む人もいる。母は真剣な顔つきで議論に耳を傾け、ときどき頷く仕草を見せていた。「小児切断プロジェクト」の全体会議だった。

開所以来、初めての四肢欠損児である私の研究に、東京都補装具研究所は「小児切断プロジェクト」という名称を与え、プロジェクトチームを立ち上げた。数々のオリジナル補装具、自助具を製作し、それにともなう訓練方法を考案し、指導してくれることとなった。

だが、生まれたばかりの私に無理やり義手や義足を使わせては、これから獲得していくであろう運動機能を損ねてしまう可能性もある。だからこそ、定期的に私の身体の状態を確認する必要があったし、各分野のプロフェッショナルが慎重に協議を重ねていく必要があったのだ。

「当時の記録映像があるんだよ」

そろそろこのあたりで、私がなぜこれほどまでに生まれてすぐの時期のことを詳細に書くことができるのか、その理由を説明しなくてはならない。母に取材をしたのはもちろんだが、40年以上前の光景を服装まで覚えているはずもない。

当時の映像が残っているのだ。

その映像には『頑張れヒロくん―四肢欠損児3歳10ヶ月の記録―』というタイトルがつけられていた。「企画・製作 東京都補装具研究所小児切断プロジェクト」というクレジット表記があり、研究所で開発された補装具を用いての練習や日常の生活風景までが克明に記録されている。撮影は私が小学校3年生になるまで続けられ、全3巻、のべ83分16秒にまとめられていた。2巻には幼稚園での様子が、3巻には小学校での様子が収録されている。

研究所の先生たちが交代で撮影してくれていた記憶はおぼろげながら残っているが、なかでも幼い頃から私が特になついていた先生がいた。現在は帝京平成大学健康メディカル学部教授であり、理学療法学科の学科長を務める青木主税先生だ。当時の青木先生は、補装具研究所に所属する理学療法士として、私の義足の練習を担当してくださっていた。苦手な義足の練習でも、青木先生にほめられるとついうれしくなって笑顔を浮かべてしまうのだった。

当時の記憶がほとんどない私は、青木先生にお話を伺おうと大学の研究室を訪ねた。20年以上ぶりの再会だった。柔和な話し方や、どこか飄々としたところも少しも変わらない。ひさしぶりに先生に会えることだけでも楽しみだったのに、先生はこう話を切り出した。

「当時の記録映像があるんだよ」

40年近く前の記録映像が、パソコンで見られる状態にあるというのだ。これが、先に紹介した『頑張れヒロくん』だった。

20年以上ぶりに再会した青木主税先生と。まさか当時の記録映像がパソコンで見られる状態で保存されていたとは