「出世・金儲けしたいなら修養せよ」少年たちの心を掴んだ修養主義

大衆は神である(46)
魚住 昭 プロフィール

もっと上の学校に行けたなら……

明治後期から「修養主義」ブームが起きた理由ははっきりしている。明治初期以来、日本の資本主義の原動力となってきた「立身出世主義」が行き詰まったからである。能力さえあれば、一足飛びに出世できた明治初期と異なり、出世の道はほぼ中等学校→高等学校→帝大ルートに限られ、狭き門からあぶれた青年たちの不満を解消することが時代の要請だった。

講談社の飛躍的な成長は、そうした明治後期・大正期の青少年たちが置かれた状況と密接な関係があるのだが、それを語る前に、その前提となるデータを見ておいていただきたい。男女別の義務教育就学率の推移である。註①

日清戦争直前の明治26(1893)年に男子が約75%、女子が約30%、日露戦争直前の明治36(1903)年に男子が約95%、女子が約60%、それが大正7(1918)年には男子女子ともにほぼ100%に達している。

出版社にとっては急速な潜在的読者層の拡大である。これをつかむかどうかが出版社の興亡を左右する。清治は講談・落語・浪花節という庶民文化に着目することにより、潜在的読者層の一番広いすそ野に鉱脈を発見した。それが『講談倶楽部』成功の理由だったろう。

次に、中等教育機関(中学校・高等女学校・実業学校)の在学者数を見てみよう。明治を通じて増えつづけ、日露戦争前後に激増するが、それでも率でみれば大正14(1925)年の中等教育機関への進学者の比率は男子19.8%、女子14.1%だった。

つまり尋常小学校の1クラス40人として、7~8人しか上の学校へは進学できず、残り30人以上がそのまま農業をしたり、奉公に出たりしていたことになる。家の貧しさのために立身出世コースから外れる少年たちはさぞかし悔しかったであろう。

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