「出世・金儲けしたいなら修養せよ」少年たちの心を掴んだ修養主義

大衆は神である(46)
魚住 昭 プロフィール

中等学校に行かなくとも偉くなれる!

清治が『少年倶楽部』でそうした少年たちに語りかけた言葉は、大変な衝撃をもって受け止められた。

〈小学校を卒業しただけで、必ずしも中等学校に入らなくとも、偉くなることはできるものである。偉くなることの出来る人は、進んで中等学校に入つても入らなくても偉くなれるものである。入ると入らぬとはさほどの問題ではない。一体偉くなるのに一番必要なものは何であるか。それは学問ではない。才智ではない。その人の品性如何である。(略)

古人は戒められた。偉くなるの道は遠くにあるのではない。極めて手近にあるのである。仰いではたきをかけ、俯して雑巾をかける間にもある。飯を食べる、客を迎へる、使ひに行く、口上を述べる。お辞儀をする。その間にも偉くなる道は存する。(略)諸君! 一日々々が集つて一月となり、一年となり一生となる。『その一日』を偉くし給へ〉

「中等学校に行かなくとも偉くなれる」は、学歴社会から弾かれた青少年たちの生きる糧となる力強いメッセージであった。と同時に、目標は出世・金儲け、達成手段は修養の積み重ねという単純明快な図式は、国家や社会に対する批判的視点の入りこむ余地がなかった。大正末期から昭和にかけ、一世を風靡した「講談社文化」の強みも弱みもこの言葉に凝縮されていた。

少年の一日

清治は大正10年に音羽に居を移してから、周囲の者たちの勧めで団子坂の社には出ず、屋敷に閉じこもって静養に専心した。医師から「心臓が非常に弱っていて、腎臓も少し悪い」と診断され、絶対安静を言い渡されたからである。

静養の間に少年社員の教育をやってみたいと彼は考えた。「じつは前々、小さくてもよいから私流儀の学校を一つ興してみたいような考えもあったが、それは後々のことにして、しばらくこの少年部に十分力を入れてみよう。今ただちに、さまで多くの少年を必要とはしないが、これも一種の学校くらいの気持ちでやってみよう」(『私の半生』)と思い立ったのである。

清治は少年部員を2組に分け、半分は団子坂本社に残し、半分は音羽邸で自分と起居を共にさせることにし、団子坂と音羽と数ヵ月間の交代で仕事をさせることにした。

大正十年の少年部員は総勢20名余である。それから毎年20~30名、多い年には60~70名が入社した。人数の増加につれ、少年部は分隊制をとるようになり、12~13人の分隊に古参少年の分隊長が指名され、さらに各分隊長の上に全体を統率する少年指導者が複数選ばれた。

これらの少年たちは入社3年から5年くらいで社員見習となり、さらに2~3年で準社員に登用された。準社員になるとともに一人前の社員扱いされ、本社人事課の管轄下に入った。

関連記事