お茶を川に投げ捨てる母
では、一流の料理人、吉川英治が「三国志」をどう料理したのか、まず、物語のはじめの部分から見ていきましょう。
今、この記事を読んでくださっている方の中には、「三国志」と言えば、お茶を川に投げ捨てる劉備の母が印象に残っているという方もいらっしゃるかもしれません。
でもこれは、吉川英治の創作です。
『三国志演義』や『通俗三国志』の冒頭は、歴史の大きな流れを語り、後漢の末の状況から、三国時代の幕開けを語っています。中々本題に入らないので、とっつきにくく感じる方も多いと思いますが、それを読みやすく語りなおした吉川英治『三国志』のはじめの文章はこうです。
後漢の建寧元年のころ。
今から約千七百八十年ほど前のことである。
一人の旅人があった。
腰に、一剣を佩いているほか、身なりはいたって見すぼらしいが、眉は秀で、唇は紅く、とりわけ聡明そうな眸や、豊かな頬をしていて、つねにどこかに微笑をふくみ、総じて賤しげな容子がなかった。
年の頃は二十四、五。
草むらの中に、ぽつねんと坐って、膝をかかえこんでいた。
悠久と水は行く――
微風は爽やかに鬢をなでる。
涼秋の八月だ。
そしてそこは、黄河の畔ほとりの――黄土層の低い断り岸であった。
まず描かれるのは、黄河を眺める劉備の姿。ここから、最初の冒険が繰り広げられます。劉備は2年かけて貯めた金で母の大好物である茶を購うのですが、茶の希少性もあって黄巾賊に襲われるなど騒動に巻き込まれていきます。
従来から言われているように、読者を物語に導入する役割を果たす重要な冒頭部において、吉川は『三国志演義』から離れた自由な発想で、世に出る前の青年劉備を描いた物語を創作しています。
特に有名なのは、劉備の母が茶を投げ捨てるシーン。
「あッ。何で?」
びっくりした劉備は、われを忘れて、母の手頸をとらえたが、母の手から投げられた茶の壺は、小さいしぶきを見せて、もう河の底に沈んでいた。
「おっ母さん! ……おっ母さん! ……一体、なにがお気にさわったのですか。なんで折角の茶を、河へ捨てておしまいになったんですか」
劉備の声は、ふるえていた。母によろこばれたいばかりに、百難の中を、生命がけで持ってきた茶であった。
劉備の母は、伝家の宝剣を手放し母への土産の茶を守った劉備を、激しく叱責します。漢王朝の末裔であるという誇りを失い、宝剣よりも茶を優先した劉備を、心を鬼にして叱ったのです。
「せっかく、命がけで守った貴重なお茶をなぜ……」と感じる読者が多いと思いますが、ここで衝撃を受けたのなら、吉川英治の作戦勝ち。劉備の母は、この行動によって、劉備が特別な使命を持っていること、私よりも公を優先すべきであることを、鮮烈に示しています。
ちなみに、吉川『三国志』の影響は大きく、この後すぐに出された、子ども向けの野村愛正『三国志物語』にも、茶をめぐる劉備の冒険が書き込まれています。この傾向は、児童文学のスタンダードとして、1950年代まで続きます。
母への思い入れが強い
上で引用したお茶のシーン以外にも、冒頭の冒険譚の中の、劉備の行動基準は常に母親。そもそもお茶を買ったのは、母の喜ぶ顔が見たいから。
黄巾賊に誘われた時も、母を理由に断り、帰郷後、門番には、お前の母親が心配していたと、話しかけられる程です。母に蓮根の菓子を買っても、持病に悪くないか、などと考えながら歩いています。
一方、劉備の母も、劉備と関羽、張飛が義兄弟の誓いをする前に、三人と夜更けまで語り合います。その後、劉備が戦場に身を投じると、登場回数は激減しますが、亡くなるところもきちんと描かれています。いずれも、『三国志演義』、そして同時代の「三国志」(次回以降に詳述)にはない場面です。
この母子愛は、なぜ、男たちの戦いの物語『三国志』に組み込まれたのでしょうか?
その理由は推測ですが、吉川英治の文学のテーマに「骨肉愛」があること、吉川自身の母への思い入れが強いことが挙げられるでしょう。
さらに、私は、「三国志」を日本になじみやすくする、という役割もあったのではないかと考えています。当時、大衆文学や道徳の規範として、母子愛は、広く受け入れられていました。例えば、『瞼の母』、また教科書などで広く読まれた「孝子もの」などです。
『三国志演義』という長大な物語を牽引する劉備。生きる時代も国も違う、劉備という若者を、「母親思いの息子」に設定することで、当時の日本の読者にも身近な、共感できる存在にする、そんな効果があったように思います。