2019.05.05

吉川英治『三国志』に、母子愛のくだりが組み込まれている理由

局アナが語る「三国志の日本史」④

厳しい時間の制約の中で

こうして見てきたように、『三国志』執筆に際し、吉川は、孔明の評伝も含めた何冊もの資料を幅広く収集し、資料として活用していたようです。

『三国志』と並行し『新書太閤記』、時期によっては『源頼朝』『梅里先生行状記』と新聞連載を三本も抱え、さらに雑誌の連載物、短編小説も執筆していた吉川の忙しさから考えれば、漢文の読解力があったとしても、原典を探して読み込む時間的な余裕があったとは考えられません。

吉川は、厳しい時間の制約がある中で、漢籍ではなく、口語体などで読みやすく書かれた評伝を参考に、『三国志演義』以外の孔明像をも作品に取り入れたのです。

孔明の評伝は、吉川『三国志』の中で、孔明像を豊かに描いたり、記述にリアリティや信憑性を与えたりすることに、大いに貢献しました。

逆に、吉川がまとめてくれたことで、「篇外余録」を読めば、孔明の逸話の多くを知ることができ、伝説の中の孔明、実在した人物としての孔明、双方に想いを馳せることができる、と言うこともできます。

吉川英治が、新聞連載という形で4年にわたり紡いできた「三国志」の物語を終えるにあたって、孔明についてなお語り足りないところがあり、孔明への熱い思いをぶつけた「篇外余録」。

孔明は几帳面だったと思う、漢朝復興という蜀の旗印に無理があったのではないか、など、筆も自由に走り、大変読み応えがあります。

文学・史学研究者の袴田郁一氏の指摘通り、民衆との近さを強調するのも、「我以外皆我師」を座右の銘とした、大衆作家・吉川英治ならではの見方。「篇外余録」は、吉川『三国志』の最後を飾るに相応しい、なくてはならない章なのです。

吉川英治『三国志』は、青年・劉備の冒険から始まり、孔明に対する重層的なエピソードで幕を下ろします。その間に挟まれる形になっているのが、魅力的な曹操!

……なのですが、その話はまた次回。

<参考文献>
(前回までのものに加えて)
吉川英治『三國志』[『中外商業新報』1939年8月26日夕刊‐1942年10月30日夕刊]、吉川英治『新編三國志』[『日本産業経済新聞』1942年11月3日夕刊‐1943年9月5日夕刊]
野村愛正『三國志物語』(大日本雄辯會講談社、1940年、4版、1941年)
村上知行『三國志物語』第1巻‐第3巻(中央公論社、1939年、1940年)
吉川英治『草莽寸心』(六興出版社、1944年)
吉川英治記念館編『吉川英治小説作品目録 改訂版』(財団法人 吉川英治国民文化振興会、1992年)
吉川英治記念館編『吉川英治 人と文学』(講談社、2006年)
邱岭・吴芳龄『三国演义在日本』(宁夏人民出版社、2006年)
尾崎秀樹「三国志を書いた理由は」(『図書新聞』1966年8月13日)
萱原宏一「〝三国志〟のころ」[吉川英治『三国志(2)』(吉川英治全集27、講談社、1966年、月報)]
桑原武夫「三國志のために ―吉川幸次郎君に―」(『文藝』1942年8月)[『桑原武夫全集』第3巻(朝日新聞社、1968年)所収]
城塚朋和「吉川英治「三国志」」(『大衆文学研究』113号、1997年)
立間祥介「「三国志」「三国志演義」と吉川「三国志」(1)‐(4)」[吉川英治『三国志』(5)‐(8)(吉川英治歴史時代文庫37‐40、講談社、1989年)]
中田耕治「「三国志」と二人の作家 吉川英治と柴田錬三郎の作品を比べて」(『週刊読書人』1966年3月31日)
袴田郁一「大衆と伍す英雄 ―吉川英治『三国志』における諸葛亮像の形象」(『三国志研究』第13号、2018年)、115-131ページ。
劉備母子については、拙稿「吉川英治『三國志』が描く母 ―日本の大衆文学としての『三国志演義』」(『三國志研究』第11号、2016年)を改めたものです。