2019.04.20

謎めいた「辣腕投資家」に魅入られた証券ディーラーの大誤算

東京マネー戦記【10】2004年
森 将人 プロフィール

電話に出てくれ…!

意外にも、鳥飼からの電話はなかなか来なかった。鳥飼の関心の高さからすると、すぐに回答が来ると思っていただけに、30分も何の連絡もないのが不思議だった。

「大丈夫なんか?」

「渦中の銘柄ですから、時間がかかってるんだと思います。問題ないですよ」

木村の質問を流したが、もう1時間が過ぎつつあることにぼくも不安が生じていた。あと30分で、午後のマーケットが閉まってしまう。大きな取引は、マーケットが開いている時間にするのが慣習になっていた。

 

「何ですかね、この売りものは?」

はじめて異変に気づいたのは、業者間の取引市場を確認しているときだった。ディーラー間の売買を専門に行う市場で、見たことのないJ社の売り注文がスクリーンに示されていた。

「売りか。しかもめっちゃ安いな」

「本当かよ」

ぼくが確認すると、たしかにJ社の売りだった。ぼくが鳥飼に示した価格より安いプライスが提示されている。マーケットの実勢はさらに下落しているということだ。

「これ、まずいで」

「わかってます」

とっさに頭に浮かんだのは、鳥飼の顔だった。高く買うという意向を見せておいて、実際には他社で売却しようとしているのではないか。

売れなくなった債券を証券会社に買い取らせるために、こういった手口が見られることがある。鳥飼がそんなことをするはずがないと思いながらも、つながらない電話に疑いは強くなっていった。

「どうしたんだ?」

鳥飼が電話に出たのは、ぼくが10回近く電話してからだった。緊張感のない声が意外だった。

「あの取引は検討いただいてますか?」

「あれね、ちょっと状況が変わって、やらないことになったんだよ」

「値段の問題ですか?」

「それもあるかな。おたくより安い売りものもあるみたいじゃない。ちょっと考え直そうかと思ってね」

さっきの売り注文についていっているのはわかったが、それが鳥飼の指示であるかどうかは訊けなかった。結局のところ、鳥飼にとってはぼくも取引業者に一つに過ぎないのではないか。自分のなかで深まっていく問いを、追いかけたくなかった。

ぼくは急いで、取引がキャンセルになったことを売り手の銀行に伝えた。

マーケットの世界に身を置くということは、孤独に身を慣らすことでもある。たとえ打ち解けたと思っても、取引の最後の瞬間まで相手の考えはわからない。投資家も上司も同じチームの同僚さえも、出した答えが正しいかどうかなんて保証してくれない。

自分はいったい何を信じればよいのだろうか。誰もいないマンションの電気をつけたときに、そんな思いがぼくを襲ってきた。

【「東京マネー戦記」は隔週掲載。次回は5月4日(土)公開予定です】

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