2019.04.27

果たして偶然か……三島由紀夫の死は「ある友人の命日」と同日だった

三島由紀夫「自裁死」の謎に迫る

軍の持つ偽善性への愛想づかし

確かに山崎のようなタイプはいて、戦場であまりにも過酷な体験をしたために人嫌いになっていると元役員は話している。

「二人は誰ともほとんど会話せず、教室では沈黙していた。でも二人が友人になったか否かは私は知らない。でもその二人が方向は異なるがそれぞれ有名になったのが、私にも興味深い思い出になっている」

この元役員は、「二人は友人になったかもしれない、とにかく浮いていたからね」とも口にしていた。私は、二人は友人として自分たちの考えを披瀝しあっていたのではないかと思ったのである。

三島は本来なら戦争に行かなければならない世代だが、体力的に満たないため行かずにすんだようであった。学友たちの従軍話に引け目を持ったことは充分に考えられる。一方で山崎は軍内での理不尽な動きに不信を持ち、白を黒とし、黒を白とする上官の非人間性や終戦時の物資持ち出しの責任を山崎に押し付けて逃げるような卑劣さに心底からの怒りを持って除隊したのであった。

『青の時代』には、こうした事件も遠回しに語られている。

三島と山崎の間で何が話し合われたのか、あるいは若干の会話を交わして友人になり得ないとの判断が双方にあったのかは史料がないのでわからない。

一高時代からの山崎の親友が、将校から水風呂に飛び込めと言われて心臓麻痺で急死するのだが、それを町の医師のせいにさせる役を山崎は命じられている。山崎は軍の持つ偽善性に愛想づかしをした。

戦時下、戦地に赴く友人に密かに手紙を書き、それを「国家は最高の悪である。虚偽は最大の善である」と結んだ。

そういう山崎と三島が教室で、疎外の感情を持ちながら、どういう会話を交わしたのだろうか。それ自体が昭和史の謎である。

ただある一事を私たちは考えなければならないように思う。

山崎が青酸カリを含んで自殺したのは昭和24年11月25日であった。

三島由紀夫が楯の会の会員と共にあの事件を起こしたのは、昭和45年11月25日であった。

これが偶然なのか否かは私にはわからない。しかし、たとえ偶然であろうとなかろうと、死への感情は磁石のように惹きつけられていったというべきなのかもしれない。