「無敵の人」と呼ばれるような、社会的・経済的に追い詰められた人が、いよいよその身を破滅させるときにひっそりと自死を選ぶか、あるいは「死刑にされたい」と望んで他人を殺傷するような犯罪に及ぶか。それは本人にしかわからない。
「無敵の人」それ自体は、いわばこの平和で安全な社会の実現のための徒花(あだばな)であるともいえる。幸福に暮らす人々がいる一方で、さまざまな要因からどれだけ努力しても不幸から抜け出せない人はどうしても一定数存在してしまう。たとえ全員が等しい質量の努力をしても等しい結果は得られない。人生には必ず結果の差が生じてしまうのだ。
それゆえ「幸せな人間が存在することそれ自体が自分にとっては許せない」と憎しみを募らせてしまう人はいるだろうし、それが凶行に及ぶ動機として存在することも否定できない(「附属池田小事件」などもその事例に当たるだろう)。
しかし繰りかえしになるが、このテキストが書かれている2019年5月28日は事件発生の当日であり、警察による捜査はほとんど進捗しておらず、また犯人とされる男も死亡している状態である。それにもかかわらず、事件を傍観する多くの人びとのなかですでに「無敵の人問題」と結び付けられて話が進んでいることには、少々思うところがある。語弊をおそれずに書いていこう。
「“異質な者”がやったのだ」
今回の事件を受けて、人びとからは「どうやったらこれ以上無敵の人をつくらないで済むか、みんなで考えるきっかけにすべき」「福祉や雇用が大事だ」「地域社会の目が大事だ」「結婚をしろ」「友人をつくれ」などと、さまざまな意見が噴出している。
たしかにそれらは一理あるだろうし「無敵の人問題」の処方箋としても一定の効果があるようにも思える。「どうやったらこれ以上無敵の人をつくらないで済むか」を考えるのは重要なことだ。それが多くの人の間でさかんに議論されるようになること自体は歓迎されるべきことだろう。
しかしながら、こと今回の事件が、その背景も明らかにならない(少なくとも、他の類似事件よりも明らかに判断材料が乏しい)うちから「無敵の人が起こした事件」と半ば決め打ちされて議論が展開していることは、「無敵の人をなくしたい」というよりもむしろ「なにもわからない状況だからこそ、自分たちを納得・安心させるための『物語』『筋書き』がほしい」と考える人びとの、ある種の自己防衛的な反応であるかのように見える。
平和で安全になっているはずの社会において、このような事件は異様であり、グロテスクであり、意味不明なものとして強いインパクトを与え、人びとを不安にさせる。
だからこそ人びとは、このような凶行に及ぶ人物を「平和で安全な社会で生きる自分たちとはまったく異なる存在」「経済的にも社会的にも追い込まれ、世間に恨みを持つ異質な存在」であると規定して、不安を取り除くための「とりあえずの説明」を得たいと考えるのではないだろうか。