中曽根首相が「最も頼りにした参謀」
'81(昭和56)年3月、「増税なき財政再建」を掲げた鈴木善幸内閣の下、臨時行政調査会が発足。数々の企業を再建させた土光敏夫元経団連会長が、会長を務めた。
伊藤忠会長の他にも、日本商工会議所特別顧問などを務め政財界に幅広い人脈を築いていた瀬島は、請われて委員となった。「メザシの土光さん」と愛された土光会長が臨調の「光」なら、瀬島は「影」の存在で、各方面との調整役を務めた。ついたあだ名は「臨調の官房長官」。
財政健全化、国鉄分割民営化などさまざまなミッションを検討する臨調には、経済学者の加藤寛慶大教授や評論家の屋山太郎氏など多彩な顔触れが参加し、侃々諤々の議論を行った。だがその内容は、たびたびマスコミにリークされた。
情報漏洩の元は、「裏臨調」だった。権勢を増していた中曽根康弘行政管理庁長官が毎週金曜夜、赤坂の料亭で開催した会合の異名だ。中曽根が最も重用したのが、軍隊の先輩でもある瀬島で、二人を中心として、配下の橋本龍太郎党行財政調査会長などと、実質的な方針を決めていた。
その後、公約に反して企業増税を打ち出した鈴木内閣の人気は急落し、'82(昭和57)年に中曽根が後継総理の座に就く。同時に瀬島は、「総理の参謀」となった。
当時、歴史教科書問題が火を噴き、日韓関係が危機に瀕していた。中曽根首相は瀬島を「密使」にして、全斗煥大統領とのパイプを築き、'83(昭和58)年1月に電撃訪韓。瀬島は中曽根に、首相就任後初の外遊に韓国を選ぶこと、韓国語で挨拶することなどを助言し、日韓関係は急回復した。
瀬島は晩年まで、政界要人の陰の参謀役であり続けた。'82(昭和57)年に月刊誌『現代』の取材にこう答えている。
「情報の価値というのは、情報の素材そのものじゃない。それを見る人間の問題なんですな」
いつまでも参謀というのは困る。
時には司令官と呼ばれたい(笑)。
ただ参考までに言いますと、
本来、情報の分析をやる。
その結果として、対応する企画を立て、
上司の裁断を仰ぐ。
それが実行されるとフォローし、
その結果を上司に報告する。
そこまでが仕事なんです。
企画しっぱなしではないんです。
――月刊誌『現代』'82年10月号のインタビュー記事より
『週刊現代』2019年6月22・29日号より