2019.06.23
# 政治政策

日本のリベラル勢力は、なぜ「友達」を作れないのか

「政治における友人」について
岡田 憲治 プロフィール

では、LGBTを認めよと主張する人たちと、それにあまり積極的でない人間が「どうしても守りたいもの」は、本当に架橋不能な異なる価値観に依拠しているのだろうか?

「自分はLGBTの感覚は理解できない」と、逆にLGBT側の「この気持ちはあなた方には到底わからないだろう」と、その根底にあるものは、静かに切り分け、整理し、付き合わせればさほど違わないのではないのか?

なぜそう言えるのか。LGBTを積極的に認めない人であっても、おそらく「生理的には実感できないが、目の前にいる僕らと同じ無力な人間たちが、今のままでは生き辛いと言っていることを放置できない」気がするからだ。彼らも、そうした生き辛い人を「変な一部の人たち」としてはいけないんじゃないか? そういう「放置できない」という気持ちは「失いたくないもの」ではないのか?

なぜなら、学力、容姿、運動神経、その他、様々な領域において、固有の「生き辛さ」を、私たちは誰しも持っているからだ。差別されることを愛する人などいない。

 

原発をめぐる衝突

同様に、「即時全原発を廃炉に!」という主張に対して、保守派と言われる人が「そんな話にまともな大人はああそうですかとは乗れない」と返せば、「フクイチの事故で沢山のがん患者が増えているのに、あなたには良心というものはないのですか?」と、「正しいこと」を言われてしまう。

私は、「原発事故で漏れた低線量放射性物質が、何らかの因果関係によって健康被害を生み出していると推定され、かつ人々がそれを不安に思うのは、さほど不自然な反応とも思えない」と考える。

しかし、だからと言って、半世紀以上も国策として膨大な人的・物質的・財政的コストを投じて運営されてきたものの現実の重みを「ないこと」にはできない。この産業によって、日々の生活を維持している人々が大量に巻き込こまれてきたのだから、それをある日突然「全部無しってことで」とできるはずもない。健康被害のリスクをゼロにするためには、全廃は「論理的には」正しいけれど、これまた社会的には簡単にはできない。

でも、この場合も、「原発はこれまで通りというわけにはいかないな」くらいの気持ちと、「反人間的な発電は即全廃だろ」という論理の間には、いくばくかの距離があるけれど、その心の水脈まで降りていけば、「守りたいもの」はさほど変わらないのだ。

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