これは対話ではない。こちらは「世界は自衛隊を戦力だと一ミリも疑わずに、それを前提に安全保障を考えている。それを無視するのですか?」と尋ねている。対話ならば「そんな野蛮な国際ルールは無視して良い」と腹をくくるか、「無視はできない。だからその状態を脱するために法整備が必要だ」と話を続けようとするかのいずれかだろう。
しかし、そうならない。何度尋ねても、尋ねたことに「応えて」くれない。
我々の考えがどこまでは同じ道を歩んでいて、どこから分かれてしまったのかを確認しませんかと提案し尋ねても、つまり「政治の友人」のたたずまいを共有しようとしても、友人になる契機すら拒否されてしまうのである。
お前は、大伯父が鹿児島の飛行場で銃弾を浴びて戦死し、父親が空襲下靴の先を燃やしながら逃げ惑ったことを知っているのに、憲法を改正していつでも戦争をできる国にしようとするのか? ご先祖様に申し訳ないとは思わんのか、と非難されるのである。

私は、自衛隊を強大化させて大砲外交をすることも、核兵器を持って恐怖の均衡をコントロールして国益を維持するやり方にも賛成していない。この世で一番嫌いなものは「愚劣で威張った軍人」である。
しかし、自称リベラルの9条原理主義者たちは、その「だから違うんです」を聞いてくれない。私が望んでいるのは、「世界標準の近代憲法と、その規範力を受けた下位法体系を整備することで、他国に信頼されて、自ら他国との軍事的連携の中に入り込んで(アデナウアーがかつて西ドイツを自らNATOに封じ込めたように)、自国の軍隊が暴走しないような多国間安全保障を確立すること」である。
310万人を死なせてしまったあの愚かな「先の戦争」を二度と繰り返さないために、軍隊を暴走させないことが「どうしても守りたいもの」である点において、彼らと私は少しも価値観を異にしていない。
つまり、9条原理主義者は、いつだって自分の「潜在的政治の友人」であるはずなのだ。
どうして友人になれないのか? どうして完全に憲法の法理を破壊するような安倍改憲案と、バラバラに戦わねばならないのか? 政治をしましょうよと、切なさがつのる。