2019.06.25

被疑者は言った。「警察って、そんなことまでやっていいんすか?」

話題作『刑事弁護人』第1章を特別公開

男社会

その日も、いつものように立ったままで被疑者が入ってくるのを待っていた。留置管理官に伴われ、黒田が接見室に入ってきた。亀石は、黒田の目に一瞬浮かんだ困惑を見逃さなかった。

亀石自身は、初対面で失望されても仕方がないと思っている。男社会の弁護士業界、そして被疑者・被告人も圧倒的に男性が多い。困惑や失望はむしろ当たり前、そこから挽回できれば問題ないと思っている。

「こんにちは。ウチの事務所に依頼があって来ました亀石です。よろしくお願いいたします」

そう言って、アクリル板越しに名刺を見せた。それをじっと見た黒田も挨拶を返した。

「はい、よろしくお願いします!」

被疑者として勾留されている者には似つかわしくない、明るい声だった。

「じゃあ、ちょっと事件のこと、いろいろ聞かせていただけますか」

「いや、僕たちねぇ、いっぱい事件をやってるんすよ」

「被疑事実に間違いはないということですか?」

「ああ、そうなんです、そうなんです。だから、僕はぜんぜん争う気はないんですよ。もうパッと行って、パッと帰ってきたいんで。ただ、たくさん事件をやってるんで、この先、だいぶ長くかかると思うんですよね」

黒田ら窃盗団は三桁にのぼる犯行を重ねている。現段階では、駐車場でナンバープレートを盗んだ事件で勾留されているが、別の事件で再逮捕・再勾留される可能性もある。

「本当にたくさんあるんで、今の時点ではトータルで何件起訴されるのかわからないんですよ。けど、だいぶあると思いますよ」

「じゃあ、これから長い付き合いになりますね。よろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

黒田には「接見等禁止決定」が出されていた。そのため、弁護人以外の者との接見は、この決定が解除されない限り、禁止されていた。被疑者に接見等禁止決定が出されている場合、外にいる家族らに何を伝えるか――その役割を担うのも刑事弁護人の仕事の一つだった。

「足りていないものはありませんか」

衣服、コンタクトレンズなど、必需品を家族や知人に伝え、用意してもらって弁護人が差し入れることもある。

「体調は悪くないですか」

具合が悪ければ、医師に診てもらうよう警察と交渉する。

黒田には、外に内縁の妻がいた。

「どんなものを差し入れしてもらいましょうか」

「じゃあ、文藝春秋をお願いします」

「文学がお好きなんですか」

「はい。よく読むんですよ」

Photo by iStock

なるほど、それで文藝春秋なのか。亀石も、幼少のころから文学に親しんできた。娯楽的な内容の小説よりも、人間の本質を問う純文学に惹かれた。誰ともなじめなかった幼いころから、一人で本を読むのが好きだった。最後に答えも種明かしも書いていない純文学に触れることで、周辺にある事象を眺めながら本質を突き詰める癖がついた。身の回りで起こる出来事や、誰かの何気ないひと言に対して、気になって立ち止まってしまう。そんな自分の身の上を思い浮かべ、文学を好むという黒田に親近感を覚えた。

黒田は、罪も認めているし、健康状態も良好だった。内縁の妻とのコミュニケーションにも問題があるようには見えない。取り調べにどう対応すればいいか、供述調書をつくるときの流れや注意事項などは、慣れているからいちいち説明する必要はない。これから先、自分にどのような事態が降りかかってくるかもわかっている。それほど頻繁に接見に来なくても、せいぜい週に二、三回顔を見せに来て、被害者への弁償について話し合いながら、粛々と手続きを進めていけばよさそうだ。

この時点までは、それほど難しい事件になるとは、亀石は思っていなかった。