話題の映画『新聞記者』を観て感じた、この国のリベラルの限界

ネットでは存在感が際立つも…

わかりやすすぎる「悪者」

例えば森友事件について、どう見ても事実と言えることを取材者の視点で並べるだけでも十分力強い物語ができたはずだ。あの件は、いくつかのタイミングに分かれて幾層もの事実が積み重なったので、一般の人は結局何が何だかわからなくなっている。それを、事実を歪曲せずはっきりしていることだけを時間軸で並べたら、多くの人が「そういうことだったのか」と受け止めるだろう。

まだもやもやしている森友事件をリアルベースで扱ったら大きな話題になったのではないか。そこにこそ本作が『大統領の陰謀』と並びうる、そして超えるかもしれない大きな可能性があったはずだ。

 

しかし逆に本作では、どう見ても加計学園の件が題材なのに、どう見ても事実からかけ離れた真相が描かれている。正直、真相がわかった瞬間、私は映画館で「なーんだ」とつぶやいてしまった。現政権をこんなに「わかりやすい悪者」にしてしまう、その幼稚さにがっかりしたのだ。

昨年、「放送法改正騒動」が起こった時に私は現政権とメディアの関係についてかなり取材した。そこで見えたのは、いまの官邸と霞が関官僚がどれだけお粗末か、ということだ。

首相の言った子供っぽい発言や意志を過大に受け止め、各所に指令を出して暗躍する官邸と、それを真に受けてオロオロ右往左往する霞が関官僚たち。「邪悪な野望」があればまだマシだ。ダダをこねるだけのトップと、それに毅然と対処できず下僕に成り下がった情けない官僚――それがいまのこの国のエスタブリッシュメントの実態だ。

この映画の真相ほどには、この国の権力機構は悪賢くはない。だから情けないのだ。

逆にこの映画の描く権力者像は、“いつもの悪者”だ。巨悪の捉え方が70年代と大して変わらない。そこに私は「なーんだ」と言ってしまった。さらに最後も、“権力に立ち向かう物語”のお定まりの結末。

70年代以来、この国の映画は「権力と戦うが、最後は負けてしまう」物語ばかり描いてきた。勝てないことにヒロイズムを感じる心性が悲しい。昭和は終わったのにまた負けて喜ぶ映画かと心底がっかりした。『新聞記者』のタイトルには、この国のジャーナリズムの“反権力の正義に酔う感覚”がこもっているのではないか。

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