話題の映画『新聞記者』を観て感じた、この国のリベラルの限界

ネットでは存在感が際立つも…

もてはやすだけでいいのか?

そして、批判を覚悟で言えば、この映画をもてはやす、いわゆる“リベラル”の空気にも辟易する。

反権力と言うのなら、最後は権力に一矢報いることを諦めてしまうこの物語に、どうして不満を訴えないのだろうか。それは、“リベラル”が「負けること」に奇妙な美学を感じているからではないか。権力に勝てない自分たちが好きなのだと思う。だから“リベラル”はいつまでも効力を持てないのだ。

 

結局、この映画の興行収入以上の不思議な盛り上がりは、日本の“リベラル”の限界を露わにしている。権力をステロタイプに描いて、「悪者」を作り上げ、幼稚な「真相」に飛びついてしまう。内輪だけで盛り上がり、外へ広がろうとせず、「愚かな民衆はなぜ政治の真実に目を向けないのか」と嘆く。そしていつものように敗北を喫し、負けた自分の姿に酔いしれる。これでは権力側に、せいぜい慰めあってねとあしらわれて終わりだ。

仮に、この映画の支持層が60代の、反権力志向の人びとが中心という推測が当たっているなら、その後の世代は彼らのそんなナルシシズムを反面教師として、次へ進むことを考えるべきではないだろうか。

それは、もはや負けに酔ってる場合ではないと認識すること。だからこそ、まずは確実に勝つことを目標にすることだと私は思う。「リベラルの限界」がこの映画から読めるとしたら、次に目指すべきは「リベラルの進化」ではないだろうか。

とはいえ、映画『新聞記者』をこきおろして、見る価値がないと言いたいのではない。この映画の最大の価値は、こうした議論の格好の題材であることだ。ぜひみなさん見てほしい。そしてべた褒めするネットの空気に安易に流されずに、感じたことを堂々と口にしてほしい。

この映画の価値と面白さは、この映画について語ることにあると思う。

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