「カッコいい」はとても魅力的でありつつ、実に厄介なものです
人を自発的に動かす独特の力二〇世紀の総括として
このたび上梓した『「カッコいい」とは何か』(講談社現代新書)は、僕にとって小説を除けば、ここ十年で最も書きたかった本です。
このテーマになぜそれほどこだわりがあったかというと、カッコいい存在に憧れる気持ちを僕自身、誰に教えられるでもなく持ち続けて育ってきたという自覚があるからです。
幼い頃にテレビで観た戦隊ヒーローから始まって、野球選手、そしてミュージシャン。特に自分でバンドを組むようになってからは、オーディエンスやバンド仲間から受ける評価の基準は、「カッコいい」か「カッコ悪い」かのどちらかしかありませんでした。
僕が十代の頃に影響を受けた三島由紀夫にしても、文学としての奥深さ以前に、彼の文体そのもの、あるいは『裸体と衣裳』に書かれていたような、いかにも「文壇の寵児」という華麗な活躍に、「カッコよさ」を感じていたように思います。
そもそも戦後、特に一九六〇年代以降の文化は、「カッコいい」ことが非常に重要な価値観として人々によって追い求められ、さまざまな行動がそれに基づいてきた面が多分にあります。
にもかかわらず、「美しい」や「崇高さ」に比べると「カッコいい」はあまりにバカにされ、軽んじられてさえきました。三島だって、こんな言葉は単なる流行語だと言っていたくらいです。
英米では九〇年代に「クールとは何か」についての研究が行われているほか、それ以前にも「ヒップ」「ダンディ」など、これに類似する概念についての研究の蓄積があります。
一方で日本では「カッコいい」について論じたものとなると、「恰好が良い」という言葉の「恰好」とは何なのかについて研究した論文があるくらいで、それだって一冊の本になっているわけではありません。
また本書で詳しく説明しているように、「恰好が良い」と六〇年代以降使われるようになった「カッコいい」は、部分的には同じですが、かなり異なった概念です。
しかし二一世紀の最初の二十年が過ぎようとしている今、「カッコいい」とはどういうことなのか、前世紀の総括という意味でもきちんと論じておく必要があるのではないか──そう思い始めたことが、『「カッコいい」とは何か』を書き始めたきっかけでした。
人を自発的に動かす力
僕の考えでは、人がある存在を「カッコいい」と感じる際には二つの条件が不可欠です。
ひとつは──よく、音楽で受けた感動を電撃に喩えるように──、しびれるような「体感」が伴うこと、そしてもうひとつは、憧れの対象となる人物なりが、憧れる側の人生において何らかの規範になることです。
たとえば、マイルス・デイヴィスは、僕にとってこの世で最もカッコいい人物のひとりですが、僕がそう思うようになったのは、彼の演奏する音楽のカッコよさに体感的に「しびれた」のに加えて、自叙伝などを通じて彼の生き様にも憧れたからです。
黒人であるマイルスは、アメリカ社会からひどい差別を受けてきたにもかかわらず、自分のバンドでは完全な実力主義を貫き、ビル・エヴァンスのような白人でも、実力さえあればメンバーに引き入れました。
そのことを面白く思わない黒人のミュージシャン仲間たちから文句を言われても、マイルスは「オレは演奏さえ上手い奴なら白でも黄色でも、赤でも青でも構わない」とまったく意に介しませんでした。
こうした逸話を読むことで、僕自身もいつの間にか、「人間を肌の色で判断するのはカッコ悪いことだ」という価値観を持つに至ったわけですが、これは倫理的に諭されたからそうなったのではありません。
憧れの人の振る舞いを真似したいと思っていたら、結果的に自分自身にもある種の倫理性が備わっていった、という方がはるかに実感に合っています。
誰かに強制されたわけでもないのに、ある人が他の誰かに憧れたことで勝手に努力を始めてしまったり、人生がポジティブな方向に導かれたりしてゆく。僕が「カッコいい」という価値観に魅力を感じるのは、この感覚に「人を自発的に動かす」という独特の力があるからです。
今の若い人たちが真似したいと思うのは、ミュージシャンではなくユーチューバーだったりするのかもしれませんし、人の個性を表現するための手段として、ひと昔前までは圧倒的に服装が重要視されていたのに対して、今ではその役割をむしろSNSが引き受けるようになっているなど、「カッコよさ」は時代とともに移り変わるものでもあります。
しかしいずれにしても、「カッコいい」と真似したくなるような存在は、誰の人生にとっても必要なものなのです。