2019.07.28

「カッコいい」はとても魅力的でありつつ、実に厄介なものです

人を自発的に動かす独特の力

「カッコよさ」の危険

ただ「カッコよさ」は、この強力な動員力ゆえの危険があることも事実です。ある人から見て「カッコいい」人が生き様も素晴らしいなら理想的ですが、「カッコいい」のは外見だけで、倫理的には間違っているという場合には、最悪の結果さえ招きかねません。

歴史を振り返れば、政権がプロパガンダを駆使することで「カッコよさ」を装着し、それによって若者を戦争に動員するということがありましたし、未だに「カッコいい」と評されては厳しく批判される制服を着たナチスが、ユダヤ人を虐殺するという悲劇もありました。より卑近な例で言えば、暴走族に若者が惹かれるのもそれに近いところがあります。

あるいは、ネット上や街頭で特定の国や民族への憎悪を煽り立てている人々にしても、彼らを支持する人の中には、「マスコミが伝えない真実を暴露している」「戦後教育に洗脳された連中を論破してくれる」などと感じ、彼らに本気で「カッコよさ」を見出している人もいるでしょう。

誰かのもつ「カッコよさ」に魅了された結果として、他人を迫害する側に回ってしまったり、場合によっては自分自身も生きるのが困難な方向に導かれてしまったりするというのが、「カッコいい」のもつ実に厄介な点です。

だからこそ我々は、「カッコいい」とは何なのか?ということを、常に倫理的に反省し続けないといけません。

ヨーロッパでは十八世紀後半頃に学問分野で「真・善・美」という三つの価値が人間の理想とみなされるようになって以来、これらが芸術や人間生活のあらゆる領域で調和しているべきである、という考え方が広く社会に浸透しています。

現代の「カッコいい」存在にも、「真・善・美」の構成を常に反省的に考え続けることが求められているはずです。

近年のハリウッド映画で、過去のヒーロー物映画の主人公が白人の男性ばかりであったことへの反省として、女性や人種的マイノリティを主人公としたヒーローが活躍する作品が増えているのも、その一例でしょう。

「カッコいい」手本を求めている現代

もっとも、「カッコよさ」は昔に比べると成立しづらくなっている価値観ではあるのかもしれません。

というのも、一九六〇年代と比較すると、現代は個々人の価値観が圧倒的に多様になっていますし、そうした社会で、大衆を動員できるような唯一の「カッコよさ」を示して、上から押し付けることはほとんど不可能になっているからです。

また「カッコいい」は「ダサい化」、つまりあるものをダサいものとしてしまうことと表裏一体でもありますから、そうした行い自体を白眼視する風潮もこれに拍車をかけていると思います。

ただ誰もが認める「カッコいい」存在がなかなか現れない社会は、裏を返せば、しびれるほどの感動を与えてくれ、「自分もああなりたい」と思わせてくれる対象を渇望している社会でもあります。

そういう意味では、いま誰もが「自分はどう生きたらいいか」を教えてくれる手本を求めていると言えますし、若い世代の間には、自分より年長の人たちにはそのような存在でいてほしい、という願望もあるのではないでしょうか。