「愛」とは“理性”で“吟味する”もの
愛は〝情念〟であると同時に1つの〝理念〟でもある
講談社現代新書から上梓したばかりの拙著新刊『愛』は、構想20年、執筆に2年半をかけた、わたしにとっておそらく最も大切な哲学作品となるものだ。この本において、わたしは、「愛」とは何か、そしてそれはいかに可能かという問いを、徹底的に明らかにし得たと確信している。
しかしそこに至るまでの道は、きわめて困難なものだった。
言うまでもなく、「愛」は哲学史上最も重要なテーマの1つである。多くの哲学者たちが、これまで「愛」の本質解明に挑んできた。しかしわたしの考えでは、彼らの試みはそのほとんどが失敗している。
その最大の理由は、「愛」がきわめて〝理念性〟の高い概念であることにある。
単なる「好き」や「性欲」などの一般的な情念は、向こうから〝やって来る〟もの、あるいは内から〝湧き上がって来る〟ものである。わたしたちはそれを、ありありとこの胸で味わうことができる。
それに対して、愛は、一度わたしたちの理性を通して吟味されずにはいられない、きわめて〝理念性〟の高い概念である。つまり愛は、情念であると同時に1つの理念でもあるのだ。
愛の〝理念性〟、それはちょうど、「美」が〝きれい〟〝心地よい〟といった感性的な概念を超えた、理念性を帯びた概念であるのと同様である。
理想の「愛」など存在しない
〝きれい〟や〝心地よい〟は、肉感的に、五感全体を通してわたしたちに感じられるものである。「きれいな人」や「心地よいソファ」は、わたしたちの感官に快感を与え、ただ楽しませてくれるだけのものにすぎない。
それに対して、「美しい人」や「美しい家具」といった表現には、ただの快以上のものが含意されている。「正しさ」「よさ」「完全さ」といった、何らかの価値理念が表現されているのだ。
同様に、わたしたちは「愛」という言葉に何らかの価値理念を感じ取っている。単なる「好き」や「性欲」とは違って、愛には何か〝正しいあり方〟のようなものがあるのではないかと、つねにどこかで考えているのだ。
それゆえ、一言で「愛」と言った時、わたしたちは、神の愛のような理想理念や、世界の一切の矛盾や苦悩を克服しうる絶対調和の理念などをイメージすることがある。実際、キリスト教の影響を受けた西洋哲学者たちのほとんどは、「愛」をそのような何らかの理想理念として描き出し、そのいわば現実の姿を解明することに失敗してきたようにわたしには思われる。