【ママ、死にたいなら死んでもいいよ 第2回】
ある日をさかいに、母親が下半身麻痺により車いす生活となった。そんな経験から、ユニバーサルデザインの会社の立ち上げに尽力し、いまもその会社「ミライロ」に勤める岸田奈美さん。
奈美さんのサポートもあり、母親の岸田ひろ実さんはいまや全国各地から講演依頼の絶えない存在となり、自らの半生を綴った著書『ママ、死にたいなら死んでもいいよ』も大きな話題になった。

FRaU WEBでは、娘である奈美さんの視点から、数回にわたって当時のことを振り返ってもらう。前回、「生きているのが辛い。もう死にたい」とお母さんに言われた奈美さんは、お母さんが生きててよかった思う世界をつくることを決意する。高校2年生の冬、その一歩を踏み出したのだが……。
運命を感じた進路
高校2年生の冬を迎えた私の頭は「下半身麻痺になった母を笑顔にして、約束を守る」ことでいっぱいでした。でも、所詮はただの17歳。これから何をすれば良いか、見当もつきませんでした。
ぼんやりと頭の中にあったのは、亡くなった父のような経営者になること。歩けなくなった母が、笑顔で過ごせる環境をつくること。その2つでした。
学校の進路相談室で、大学のパンフレットをパラパラとめくっていると、あるページが目に飛び込んできました。関西学院大学 人間福祉学部 社会起業学科。日本で唯一「経営」と「福祉」を同時に学ぶことができる、新設したばかりの学科でした。
そして、思い出しました。私が中学生の頃、父が、私を連れて関西学院大学を見に行ったことを。別に、父の母校だったわけではありません。建築家であった父が、伝統的な修道院様式の校舎デザインをたまたま気に入り、思いつきで私を連れて、見に行っただけのことでした。
でも、なんとなく、運命的なものを感じてしまったのです。ここに行くしかない。
ダメだったら、大学へ行かずに働こう。思い込みが激しい私は、固く決意しました。
近所の元塾講師に「タダで教えてください」
しかし、関西学院大学は入試の英語が難しいことで有名でした。私はと言えば、英語は大の苦手。高校の授業についていくことすら、できませんでした。
当時の模試では、関西学院大学はE判定(合格は絶望的、志望校の変更を)。でも、母は入退院を繰り返していましたし、知的障害のある弟もいます。家庭も家計も大変な状況で「塾に行きたい」とは、到底言い出せませんでした。
自主勉強で他の受験生に追いつける気がしなくて焦っていた時、近所に大手有名塾で英語の先生をしていた人がいる、と聞きました。その先生は塾を引退して、今は小さな整骨院を営んでいました。
いま思えば失礼極まりないのですが、必死だった私は、その先生の仕事が終わるのを待ち構えて、「どうしても、母のために大学へ行きたいんです。私に英語を教えてください」とお願いしました。もちろん、先生に支払えるお金なんて、雀の涙ほどもありません。先生は少し考えてから「事情はわかった」と言ってくれました。