日本人はどうして「均一化」してしまうのか
多様性が失われる理由は、食事だけの問題ではないんです。食事と多様性の関わりは、まず情報の均一化、単純化でしょう。私たちは大量の情報に踊らされていますね。だれも情報の影響を受けていない人はいないでしょう。
情報を受け取って、流行りのレストランに人が押し寄せることも、自分で作らないで安くて人気の加工食品を利用することも、それはみんな同じものを食べたがっていることになるわけですから、単純化ですね。だからタピオカのお店だらけになったでしょう。
実際に、スーパーで売られている生鮮食品も幅が狭くなっています。好まれるものを絞り込んで大量に生産して、流通しやすいものばかりになっているということです。
それに乗じてメディアは、視聴者、読者が集まるところに網をかけようとします。だから情報に乗るレシピだって特別な食材を使うよりも、だれもが使える食材を使ったレシピを紹介した方が、数という結果はえられますね。内容はともかく視聴率、販売数というような数字というわかりやすいものしか取り扱いたくないのです。

それほど深く難しく説明する必要するつもりもありませんが、多様性が進まない理由は、日本人の持っている観念が大きく関わってきます。それは和食を通してもいろいろ説明することができるのですが、ここでは、日常使いの銘々茶碗や銘々箸の「属人器」と言われる概念から考えます。
日本人は「家」でしか本当の意味で自由になれないんです。日本の家では、箸と茶碗は、家族一人一人がこれはお父さん、これはお母さんって、使う人を決めて家族でも他の人が使うことを許さない傾向がある。属人器とはある考古学者が作った言葉です。理由は、いろいろ言われていますが、食事の取り方の問題だと私は考えています。
でも、家を一歩外に出てみれば、(会社などで)他人と食器などを共有してもなにも違和感を感じなくなります。会社でも少人数であればマイカップも可能ですが、基本的には、個人の専用物はなくなります。そういう意味でも、日本人にとって自己を主張したり、甘えられるところは家しかないのです。外では個人の主義主張は認められません。
それ以前の話になりますが、「時間」さえ、自分のものという認識がありません。多くの日本人にとって、家から一歩外に出れば、時間は会社のものになって、自分のものではなくなるんです。
そういう日本人の時間観があるから、忙しくてもなかなか断れない、付き合いが悪いなんて言われてきたのです。いやそもそも時間なんてないし、それは何も悪いことではないのですから、別にいいのですが、現代社会にそれを持ち込むと、どうも具合が悪い。時間を搾取されてしまうことになるんです。あるいは世界の人との認識がずれてしまうのです。