2019.09.29

「鉄道員の息子」が講談社創業社一族に「婿入り」をした理由

大衆は神である(69)
魚住 昭 プロフィール

満鉄入り 

昭和8年、省一は大学3年目で高等文官試験(高文)の行政科と司法科を受け、2つとも合格した。 

在学中に行政・司法の両試験に受かるのは、超エリートの証である。当然、省一は内務省か大蔵省に入るのだろうと周囲は思っていた。 

 

ところが、省一は南満洲鉄道株式会社(略称・満鉄)を選んだ。 これには戦後、「新幹線の父」と呼ばれることになる十河信二(そごうしんじ)の影響が大きかったようだ。鉄道官僚の十河は「鈴与」の6代目鈴木与平と親しく、その縁で省一ともたびたび話す機会があったらしい。与平の長男の7代目与平が『追悼 野間省一』(講談社刊)にこう書いている。  

〈(省一の満鉄入社は)そのころ満鉄の理事であった十河信二氏(後の国鉄総裁)の推薦によるものではあるが、当人としても何か考えるところがあってのことと思う。とにかく友人たちは、東大出身でもスポーツや何かで成績の良くなかった連中の志望するところだとびっくりし、満鉄では素晴らしい玉が入って来たと喜んだと伝えられている。 

氏(省一)と十河信二氏の関係は、それより先、私の父と十河氏とは長い間の親交があり、私も可愛がって頂いていたが、偶々私の二番目の弟清司(死亡)の家庭教師に一時来て頂いたことがあり、私と一緒に本郷のお邸にしばしば伺って先生からいろいろ薫陶を受けたご縁による〉  

昭和9年4月、省一は大連の満鉄本社に赴任した。 

当時の満鉄は日本人社員が約3万4000人、中国人や朝鮮人、ロシア人の合計が約1万人だった。 この年11月、満鉄の象徴ともいえる特急「あじあ号」が運転を開始した。「あじあ号」は日本国内の特急「つばめ号」より平均時速が15キロほど速い82.5キロ、最高時速も15キロ速い110キロだった。 

省一は本社の総務部文書課文書係に配属された。文書課は満鉄の中枢である。そこに配属されたということは、将来の満鉄を担う人材として処遇されていたということである。 

文書課の中には本社中のタイピストが一ところにいて、そこをプールと呼んでいたが、当時豊かな黒髪を頭の中央で分けて、黒縁の丸い眼鏡をかけていた省一が新任の挨拶にそのプールに現れたとき、白皙長身で日本人離れしたその顔に、タイピストたちは熱い眼差しと嘆息をもって歓迎した、と当時の文書課の人々が語っている註③

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