2019.09.29

「鉄道員の息子」が講談社創業社一族に「婿入り」をした理由

大衆は神である(69)
魚住 昭 プロフィール

すぐ辞去するつもりだったのに 

「満鉄の若きプリンス」省一と野間家の縁ができたのは、それより少し前、大連赴任の前月の昭和9年3月のことだった。省一の兄・三吉が、同じ高木姓で講談社重役の義賢の4女・辰子と結婚したのである。すでに述べたように、義賢の妻・操は左衛の実妹だった。 

東京高等師範学校(現・筑波大学)を出て文理大(同)に進んだ三吉は、同じ文理大出身で、義賢の次女・幹子と結婚した大須賀瑛司と親しかった。新婚当時の大須賀は義賢の家に同居していたので、三吉が遊びに行くうち、義賢とも昵懇(じっこん)になった。義賢は三吉の人柄を見込んで、4女・辰子の婿にしたいと考えたという次第である。 

 

三吉と辰子の結婚式は上野の精養軒(せいようけん)で行われた。このとき省一は清治と生涯一度きりの出会いを果たしている。そのときの印象を省一は後に「体の大きさはたいして感じなかったですが、人間の大きさというんですかね。これに打たれた記憶がありますね」と語っている。 

次に省一が野間家と接触するのは4年後の昭和13年11月。前月に清治が亡くなり、四十九日を迎える直前、省一の父・磯吉が腎臓病で他界した。当時、満鉄哈爾濱(ハルビン)鉄路局の総務処文書科の科長だった省一は、自分が帰るまで葬式をしないでほしいと頼み、軍用機で帰国した。 

父の葬儀を済ませたあと、葬儀に来た高木義賢と兄の三吉が清治の四十九日の法要に参列するため帰京することになった。省一もお悔やみに行ったほうがいいだろうと言われ、一緒に目白の野間邸に行った。これが省一の野間邸に行った最初である。 

省一はこのとき、お悔やみを言ってすぐ辞去するつもりだったのに、控室のある2階に通されてしまい、法要を行う芝の増上寺(ぞうじょうじ)に、行くつもりもなかったのに連れていかれ、それから東京会館でのお斎(とき)にも列席させられた。 

それが終わると、野間邸まで戻り、左衛が下の部屋にいたので、そこへ連れていかれた。省一が左衛と言葉らしい言葉を交わしたのはそのときが初めてであった。  

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