2019.09.29

「鉄道員の息子」が講談社創業社一族に「婿入り」をした理由

大衆は神である(69)
魚住 昭 プロフィール

迷うのは当然…… 

翌年、登喜子の婿として養子に来てほしいという左衛の意向が義賢から三吉を通じて省一に伝えられた。三吉は辰子と結婚後、岡山高等女学校の教師として赴任したが、講談社への入社を要請され、女学校を退職して、昭和14年8月に入社したから、その前後のことだろう註④。 

降って湧いたような登喜子との結婚話に省一はどう反応したのだろうか。彼は自伝や回想録をほとんど残していないので、本当のところはわからない。相手は、皇族の血をひくお姫様で、しかも再婚である。果たして互いの気持ちが通じ合うかどうか不安だったにちがいない。 

省一はハルビンで上司の本多静の官舎に下宿していたので、登喜子の写真を本多の妻・せいに見せて相談した。せいは省一に「満鉄にずっと勤めて理事になっても退職金は20万円だから、養子になったほうがいい」と勧め、しかし「講談社に行っても、古い人たちがいて大変だろうし、お姑さんもいて苦労するだろうけど、苦労は若いうちにしときなさい」と付け加えた註⑤。 

省一が登喜子との結婚を決意するまでずいぶん時間がかかった。それはそうだろう。このまま満鉄にいれば、将来は理事どころか総裁になるのも夢ではなかったのだから。迷う省一を説得するため兄の三吉がわざわざハルビンまでやってきたこともあったらしい。  

 

朝鮮満洲旅行の真の目的 

結婚話が本格的に動き出すのは昭和15年5月、左衛と登喜子、高木義賢夫妻、左衛の姪である服部喜美子と、野間鉱業部を監督する小幡公の六名が朝鮮満洲旅行に出発してからである。 

野間鉱業部は清治存命中の昭和9年、朝鮮の金山開発のために開設された機関だ。日本が外国から物資を購入するには金が必要だという国家的要請を受け、清治が側近の小幡を朝鮮に派遣し、泰昌鉱山、大源鉱山、永同金山などを次々と買収させ、採鉱に着手していた。 

左衛らの旅行の表向きの目的は、これらの金山と、野間家が満洲・奉天(ほうてん)郊外に所有する榊原農場の見学だが、実際には省一と登喜子のお見合いだった。 
左衛一行が京城に着くと、そこへ省一がやってきて、一緒に平壌も見物して満洲に入り、省一の案内でまず榊原農場視察からはじめ、奉天、撫順(ぶじゅん)、新京(しんきょう)、ハルビンとまわった。 

関連記事