2019.09.29

「鉄道員の息子」が講談社創業社一族に「婿入り」をした理由

大衆は神である(69)
魚住 昭 プロフィール

このとき登喜子は省一との結婚話を知らされておらず、省一を服部喜美子の見合い相手かと思っていたという話が伝えられている。 
万一、省一に断られたら登喜子が傷つくので左衛が伏せていたのだろう。とにかく左衛は満洲での省一の案内ぶりにすこぶる満足し、野間家の後継者は省一しかいないと確信したらしい。 

省一が満鉄をやめて野間家に入ることを決心したのは、早くて昭和15年の終わりごろ、遅くても翌16年に入ってすぐごろと思われる。同年5月、省一と登喜子の華燭の宴が開かれた。場所は三吉のときと同じ上野の精養軒である。

 

左衛の一念 

そのとき撮った記念写真が残っている。 前列中央に、モーニング姿で白手袋を右手に持った省一と、日本髪を結い上げた登喜子が座っている。二人ともすらりとした長身で、絵に描いたような美男美女のカップルである。 

その両脇に仲人の吉田秀人(台湾興業監査役)夫妻。向かってその右側に軍服姿の賀陽宮恒憲(かやのみやつねのり)王(登喜子の母・由紀子の弟。陸軍少将、騎兵第二旅団長)と同敏子妃(九条公爵家の出)が並び、前列右端は当時、陸軍教育総監部化兵監で中将、子爵の町尻量基(まちじりかずもと。登喜子の父)である。登喜子の母・由紀子は病のため式には出ていない。 

前列の左側は吉田秀人の隣りに左衛、そして省一の実母・ます、三吉の順で並んでいる。 ますは浮かぬ顔で居心地が悪そうだ。彼女はもともとこの結婚に乗り気でなかったらしく、「父(磯吉)が生きていたら、省一を養子に出すようなことはなかった」と後に漏らしている。 

皇族・華族の血をひく者と、市井の庶民という当時ではあまり考えられない婚姻を実現したのは、清治が残した事業をつぶしてはならぬという左衛の一念である。 

彼女には、講談社には省一のような人材が絶対必要だという確信があったらしく、きりっと引き締まった唇の両端には微かな笑みが浮かんでいる。 

では、講談社の社員たちはこの結婚をどう受け止めたのか。  

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