2019.11.10
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六本木が「日本で一番ヤバい場所」だった時代を知ってるかい?

あらゆるスターが集まった街
週刊現代 プロフィール

キャンティは明治維新の功労者・後藤象二郎の孫である川添浩史と妻の梶子が'60年にオープンした日本初のイタリアンレストラン。

1階にはデザイナーでもあった梶子が経営するブティック「ベビードール」も併設され、当時人気絶頂だったジュリーのザ・タイガースや、ショーケンのザ・テンプターズが衣装を仕立てていた。

 

チャンスをくれる街

さらに、10代だった松任谷由実(当時はまだ旧姓の荒井由実)が地元の八王子から通いつめ、芸能界の重鎮をつかまえては自作曲を披露し、デビューのチャンスを掴み取ったのも、この店だった。

「キャンティが多くの人を惹きつけたのは、店に熱気が溢れていたからでしょう。そこで飛び交う話し声や笑い声が熱を帯びて、新しい人たちを呼び込む。話すことなんて、いくらでもありました。その空気の中にいると、それだけで底抜けに楽しいんです。まだ何者でもなかった自分が、ワンステップ成長したような感覚になれた。

キャンティだけではありません。六本木には他にも名店がたくさんありました。たとえば、パブ・カーディナル。クラシカルな雰囲気で、調度品や家具類もヨーロッパから買い付けてきたアンティーク調のもので統一していました。

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パブ・カーディナルは2階に上がると、背の高い、王様が座るような豪華な椅子があったんです。僕はそこを自分の指定席にしていた。ただ、映画監督の伊丹十三さんもその椅子を気に入っていて。店に行くと、ドッシリと座っているんです。そんなときは、『あぁ、先を越された!』と。当時の六本木には、昭和特有の、不思議なエネルギーが溢れていました」(前出・立木氏)

そもそも六本木が「スターの集まる街」となったのは'60年代以降のこと。当時から六本木には外国公館が立ち並び、海外文化に憧れた若者たちが集まっていた。

次第に、街には「六本木族」と呼ばれる集団が生まれる。そこに目をつけたのが、芸能界に一大勢力を築き上げた渡辺プロダクションだった。

ナベプロの渡辺美佐副社長は六本木にたむろしていた10代の若者たちを束ねて「野獣会」と名付けた。その中には大原麗子(享年62)や中尾彬(77歳)、井上順(72歳)などが名を連ねていた。'70年代に入ると野獣会は自然消滅するが、そこにいたメンバーが次々に芸能界に入り、一気にスターダムにのし上がっていく。

六本木と芸能界が深く結びついているのは、そういう経緯があるのだ。

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