回復した京アニ放火容疑者は、なぜ「優しさ」についてまず語ったのか

凶行から垣間見える「やさしさの偏在」
御田寺 圭 プロフィール

「やさしさ」の偏在

容疑者の供述を受け、ネット上では大きな波紋が広がった。容疑者の半生に思いを馳せる声、身勝手な言い分だと非難する声──さまざまな声が挙がった。

「容疑者となった彼にも他人の『やさしさ』に触れられる機会があれば、このようなことにはならなかったかもしれない」という声も少なくなかった。 ──たしかにそうかもしれない。だが、あるいはこうも言えるだろう。「掛け値なしのやさしさがこの世に存在すること自体を知ることがなければ、これほど苦しまずに済んだかもしれない」と。

──人は「やさしさがない」ことによって苦しむのではない。自分と他人を比較して、「“自分のもとに”やさしさがない」ことを知って苦しむのだ。

 

自分のもとには「やさしさ」が与えられていないのに、少しよそに視線をやると、「やさしさ」が当たり前のように交換されている光景を目にする。大勢の人からの「やさしさ」を当然のようにかき集めている人を目にする。

人間は、絶対評価をあまり重要視しない。他人と比べて相対的に自分がどんな位置にいるかを測ることによって、幸不幸を感じるものだ。それが社会的関係性を築くことで生き延びてきた、私たち人類という社会的生物の宿命でもある。

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