「やさしさ」の偏在
容疑者の供述を受け、ネット上では大きな波紋が広がった。容疑者の半生に思いを馳せる声、身勝手な言い分だと非難する声──さまざまな声が挙がった。
「(容疑者は)治療に携わった医療スタッフに対して『人からこんなに優しくしてもらったことは、今までなかった』と感謝の言葉を伝えたという」──つまりはそこか…
— 丹治吉順 a.k.a. 朝P (@tanji_y) November 15, 2019
京アニ事件容疑者「こんなに優しくされたことなかった」 医療スタッフに感謝、転院前の病院で:京都新聞 https://t.co/HXGslvocLT
「そういう優しさを犯人が知っていたら、あんな事件は起こさなかっただろうに」的な利いた風な事を言ってる人がいるけどな。
— Katana Edge@中2超美少女 (cv: 広河太一郎) (@amiga2500) November 15, 2019
この容疑者も観ていて、この容疑者が焼き殺した人達が作っていた作品は「この世の中のどこかには掛け値無しの優しさがあるんだよ」という事を訴えていた作品なんだぞ。 pic.twitter.com/cphHUQ4g0N
「容疑者となった彼にも他人の『やさしさ』に触れられる機会があれば、このようなことにはならなかったかもしれない」という声も少なくなかった。 ──たしかにそうかもしれない。だが、あるいはこうも言えるだろう。「掛け値なしのやさしさがこの世に存在すること自体を知ることがなければ、これほど苦しまずに済んだかもしれない」と。
──人は「やさしさがない」ことによって苦しむのではない。自分と他人を比較して、「“自分のもとに”やさしさがない」ことを知って苦しむのだ。
自分のもとには「やさしさ」が与えられていないのに、少しよそに視線をやると、「やさしさ」が当たり前のように交換されている光景を目にする。大勢の人からの「やさしさ」を当然のようにかき集めている人を目にする。
人間は、絶対評価をあまり重要視しない。他人と比べて相対的に自分がどんな位置にいるかを測ることによって、幸不幸を感じるものだ。それが社会的関係性を築くことで生き延びてきた、私たち人類という社会的生物の宿命でもある。