「透明化」された人びとの祈り
もし容疑者のような人間に「踏みとどまる何か」を与えたいと思うのであれば、「自分の好きな相手にだけ、自分のもつ有限のリソースを与えられる」という自由な社会の美徳を、一部諦める必要があるだろう。
「この世のどこかには掛け値なしのやさしさがある」というメッセージを見ても、それを「ただしそのやさしさは、お前には生涯だれからも与えられることはない」と読み込んでしまい、恨みを募らせるような人を少しでも減らすには、「やさしさの偏在」そのものを突き崩していくほかない。
しかしながら、「やさしさの偏在」がいかに人を苦しめ、時として社会全体に大きなリスクをもたらすかということを理解する人は少ない。「誰にやさしくするかは、ひとりひとりが自由に決めてもよい」 ──このような規範に疑問を感じないのも当然だ。個人のレベルにおいては、なんの悪意もない行いでしかないのだから。
「やさしさ」を与えられず、だれからも顧みられず、この社会で透明化されている人は大勢いる。そんな人びとがみな、必ずしもこの容疑者のように、社会や人びとに対して歪んだ復讐心を抱いているわけではない。むしろ彼ら彼女らは、だれも見ていない場所で、ただ静かに祈っている。
その祈りの存在に目を向けるべき時が来ている。